くらし 【特集】戦後80年を迎えて〜後世に伝える平和への思い(1)
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- 発行日 :
- 自治体名 : 北海道室蘭市
- 広報紙名 : 広報むろらん 2025年(令和7年)8月号
終戦から80年を迎えます。終戦の年に生まれた人も80歳になり、戦争の記憶を持つ人が徐々に少なくなっています。
太平洋戦争中の室蘭は、国内でも重要な軍需工場がある都市としてアメリカ軍の攻撃目標にされました。空襲と艦砲射撃による被害の大きさは、今も市内に残る慰霊碑の数からも伝わり、戦時中の室蘭について多く語り継がれてきました。
今号では、後世に伝える平和への思いを紹介します。
■室蘭への空襲
太平洋戦争末期の昭和20年(1945)7月14日・15日、アメリカ合衆国第3艦隊第38機動部隊によって道内各地が空襲を受けました。室蘭は14日に空襲、さらに15日には、艦砲射撃も受けました。
アメリカ合衆国の航空母艦から発艦した戦闘機や爆撃機が、幌別方面からいくつかの小編隊に分かれ、14日午前5時半頃、低空で室蘭港に侵入し空襲が始まりました。工場や鉄道、港湾・艦船などを狙った攻撃が複数回にわたり続き、正午頃いったん空襲警報は解除されますが、午後1時過ぎに再び空襲警報が発令され、午前の空襲を上回る数の航空機の攻撃によって多くの被害を受けました。
港内では海防艦など多くの艦船が沈み、港湾関連施設や工場、市街地にも攻撃が及び、軍関係者だけでなく市民の犠牲者も出ました。
■室蘭への艦砲射撃と収容所
15日午前9時半過ぎ、地球岬の南東の海上約28キロメートルから、アメリカ合衆国第3艦隊第38機動部隊の一部で編成された室蘭砲撃隊旗艦アイオワを含む戦艦3隻から工場を狙った艦砲射撃が始まり、砲撃は1時間にわたり続きました。最初に日本製鋼所、その後、攻撃目標を日本製鉄輪西製鉄所に変え、戦艦から発射された16インチ砲弾約860発が両工場や市街地に撃ち込まれ、空襲よりもさらに多くの市民に犠牲者が出ました。
また、一方で戦地へ出征する日本人男性が増加したことによる国内労働力の減少を補うため、大陸から連行した中国人や連合軍捕虜による港湾荷役などの使役が行われ、慣れない土地での重労働により、市内の各収容所でも多くの犠牲者が出ています。
■我此土安穏(がしどあんのん)の碑
昭和24年(1949)7月14日、艦砲射撃による大きな被害を受けた輪西地区では、輪西元町(現・輪西町)の新設土俵で戦災死没者5周忌追善供養として、横綱照國、羽黒山など東京大相撲一行による土俵入りを行い、市内各寺院の僧侶や遺族が参列しました。入場料は弐百円とし、戦死者遺族へ分配されました。
この碑は、立雲寺住職の林舜祥さんが追善供養の際、法華経の一節「我此土安穏」の揮毫を横綱照國に依頼し、犠牲者の供養と悲劇の記憶を後世に伝えるために建立しました。
■『いたどり谷にきえたふたり』
鉄のまち輪西の瑞之江地区を舞台に、少女マサコとキム少年を中心にこどもの目線から見た戦争を記した体験談です。室蘭出身で児童文学作家の富盛菊枝さんが、7歳の時に体験した空襲と艦砲射撃の記憶をもとに、戦争を知らないこどもたちに平和への祈りを込めた作品です。
詳細:生涯学習課
【電話】22‒5094