- 発行日 :
- 自治体名 : 北海道岩見沢市
- 広報紙名 : 広報いわみざわ 2025年5月号
日本の終戦から今年で80年が経過します。戦時から現在までの間、私たちの暮らしに大きく影響を与えた出来事などを歴史資料などから振り返ります。
■第2回 戦時下で奮闘する戦地とふるさと
昭和12年に中国大陸で日中戦争が始まると、戦地への派兵とともに兵器を製造するため軍需産業をはじめ、鉄鋼や石炭など優先順位の高い産業に国民の多くが動員されました。また、輸入に依存していた米は増産努力が求められましたが、昭和16年にアジア・太平洋戦争が始まると青年男性の応召(おうしょう)が相次ぎ、人手不足が深刻になっていきました。そのため、岩見沢、北村、栗沢では国の方針に倣い町内会や部落会、職域、児童生徒が勤労報国隊を編成し、班や学級単位で町村内の軍需工場や土木工事のほか近隣地域の万字、真谷地(まやち)、弥生などの各炭鉱や繁忙期を迎えた応召(おうしょう)農家への勤労奉仕に当たりました。出動に対する謝礼金は、献金や寄付金として戦費に充てられました。
農耕馬も戦地に取り立てられ、高齢者や女性、地域の勤労隊員などに頼る農作業は、肥料などの資材不足もあって、米の作付面積は、昭和16年以降次第に減少し、収穫高も伸び悩みました。
国や社会の動き、郷土の行事や村民の勤労活動などを掲載した栗沢村の村報は、慰問袋とともに戦地にも届けられました。昭和18年秋、戦地からの便りには「今や郷土は稔(みのり)の秋空知20万石の黄金の波を拝見唯々(ただただ)増産努力の農民諸氏へ感謝又(また)毎月御送付に預る村報に懐しき在郷を偲(しの)び」と郷里の奮闘ぶりをたたえる言葉がつづられていました。
戦時期には女性や児童生徒も責務を担い、婦人会は、かっぽう着姿で炭鉱や応召(おうしょう)農家へ出動、農家の援農に来る学生たちの受け入れや傷痍(しょうい)軍人の慰問などに当たりました。また、岩見沢駅では、多数の女性駅員が業務を補い、鉄路を維持しました。
学生出陣が始まる昭和18年ごろからは、農学生、中学生や女学生も援農に動員されました。現在の岩見沢農業高等学校の前身である北海道庁立空知農業学校では、勉強よりも軍事教練と労働を伴う勤労奉仕に明け暮れた学校生活でしたが、北村に援農動員になった学生は「十分な白米をおなかに入れることのできる農村生活は厳しい、つらいというよりも、人生をたくましく生きる原体験になった」と振り返っています。
問合先:総務課市史資料室(北村支所内)
【電話】56-2001