くらし 戦後80年のあゆみ

日本の終戦から今年で80年が経過しました。戦時から現在までの間、私たちの暮らしに大きく影響を与えた出来事などを歴史資料などから振り返ります。

■第7回 戦争の悲惨さや平和の尊さを語り継ぐ戦没者慰霊祭
戦後生まれの遺族が多くなった戦後80年、全国各地で戦没者慰霊祭が開催され、平和を守る大切さを将来に継承することを訴えました。明治29年1月、明治政府は岩見沢村を含む石狩国(いしかりのくに)に徴兵令を施行し、20歳になった青年男子は徴兵検査に合格すると、3年間の兵役に就くことになりました。明治37年に始まった日露戦争では、凱旋する軍人の陰で多くの戦死者や戦傷者を出し、その数は昭和6年から中国大陸で始まった十五年戦争下、アジア太平洋戦争を迎えると著しく増加しました。白布(しらぬの)に包まれた戦死者の遺骨が帰郷すると各地で町葬や村葬が行われましたが、戦局が混迷すると戦死者の消息は途切れるようになりました。
明治41年ごろから入隊中の帰休兵や予備役兵など郷土で待機する軍人により、各地で在郷軍人会が創設されました。在郷軍人会は、青年団などへの有事に備えた準備や指導を担い、戦死者を祭る忠魂碑(ちゅうこんひ)の建設にも当たりました。大正11年創立の在郷軍人会岩見沢分会救護隊は、翌年9月の関東大震災や大正14年6月の岩見沢大火の救護活動に当たりました。十五年戦争下では、町村主催の戦死者の慰霊、追悼行事が日常化し、毎年の招魂祭では奉納相撲なども行われ、昭和13年からは軍人遺族や傷痍(しょうい)軍人などへの慰問や生活支援など軍人援護が強化されました。終戦後、連合国により規制された追悼行事は、各地の団体組織が引き継ぎ、昭和27年の講和条約締結に伴い復活しました。
戦時下に発足、終戦直後に自然解散した大日本傷痍軍人会岩見沢支部に代わり、昭和33年に発足した北海道傷痍軍人会岩見沢支部は、会員の高齢化に伴い平成18年に解散しました。会員らは「戦傷病者に対する世人の冷たい目を避けながら歩んできた茨の道は、到底筆舌に尽くし得ぬ辛苦の連続であった」と顧み、支部旗には〝われわれのあとに戦傷病者をつくるな〟という会の信条が込められました。傷痍軍人会が残した支部旗は、戦没者慰霊祭とともに私たちに二度と戦争という過ちを繰り返すことのないように、戦争の悲惨さや平和の尊さを語り継ぐことを教えてくれます。

問合先:総務課市史資料室(北村支所内)
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