文化 市史編さんコラム「市史の余白」

今回は、伊達市における「北海道空襲」についてご紹介します。

◆第8回 『戦後80年と伊達空襲』
ライター 井上 美香

先日、札幌市にある百合が原公園に89歳の母と訪れたときのことです。突然、セスナ機が轟音を響かせ頭上を過ぎ去りました。公園は丘珠空港のすぐそばにあり、車輪や機体の文字まではっきりと見えたほどです。
「樺太でもソ連の爆撃機をこんな距離で見たんだよ。山の向こうで飛行機から爆弾がパラパラと落ちて、それがドカーンと爆発して本当に怖かった」。母は空を見上げて、つぶやきました。
今年、日本は戦後80年を迎えます。母のように戦争を記憶している人はわずかとなり、太平洋戦争の悲惨さをどのように後世へと伝えていくのかが問われています。
私たちの住む伊達市も終戦を迎えるひと月前、大きな悲劇に見舞われました。それは、1945(昭和20)年7月14日、15日に道内各地を襲った、米軍機による「北海道空襲」のさなかのことです。
伊達に米軍機が襲来したのは、14日午前7時ごろだったといいます。敵機は市街地各所を空爆した後、その勢いで稀府駅に停車していた列車にも機銃掃射を浴びせました。この攻撃で、伊達紋別駅で2名、赤十字病院で患者や看護師、学生が4名、そして稀府駅では15名もの市民が銃撃を受けて亡くなったのです。
戦後、稀府駅での犠牲者の詳細は長らく不明でした。しかし、70年代に入って、当時、稀府警防団団員としてその場に居合わせた矢元新助さんが、犠牲となった人々を忘れてはいけないと独自に調査を始め、赤十字病院の倉庫で戦災者名簿を発見し身元を確認できたのです。
太平洋戦争の犠牲者はおよそ310万人といわれています。大局的な「太平洋戦争史」には書かれることがない、一人一人の戦争体験や悲劇を語り継ぐことも、地域史の大切な役割だと改めて感じています。

問合せ:総務課総務係(市役所2階)
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