くらし 【特集】上下水道 ~七ヶ浜の水、将来を見据えて~(1)

蛇口をひねると水が出る。今では当たり前のことですが、三方を海に囲まれ、川もなく、豊かな湧き水もない七ヶ浜町にとって、かつて水の確保は大きな悩みでした。
67年前の昭和33年、吉田浜の有志が、長年の水不足を解消しようと失敗を繰り返しながらも深井戸を掘り水源を確保し、町営の簡易水道を敷くきっかけとなりました。
その後、簡易水道は給水人口の増加に伴い上水道となり、今日では100%の水をダムから引いています。
一方、下水道は、60年ほど前の昭和40年代の高度経済成長期、海に排出される工場排水や生活排水で松島湾の水質が悪化したことを機に、広域で取り組む下水道が整備されました。
七ヶ浜町の水の話。歴史を振り返りながら上下水道の今を紹介します。

■水道のはじまり
《吉田浜の有志が町を動かす》
七ヶ浜町誌増補版には、昭和の時代に町民が水で苦労した様子が書かれています。
七ヶ浜町は、三方を海に囲まれた半島で、川や豊かな湧き水がなく、昔から飲料水は井戸水に頼るしかありませんでした。
昔の井戸の深さは、地質にもよりますがせいぜい10m前後、雨水や海水が混じる場合もあり、必ずしも良質な水が確保できるとは限りませんでした。
昭和30年頃になると、町内で海苔養殖が急速に普及し、海苔の生産に大量の水が必要となったことや衛生的な面からも、できるだけ早く水道を敷くことが求められていました。
こうした中、昭和33年、新たな水の確保にいち早く立ち上がったのが吉田浜の有志の人たちでした。町議会に、町営による簡易水道を請願したものの、町の財政難と水源確保の見通しがたたないという理由で不採択となってしまいます。
やむなく、吉田浜の人たちは、吉田浜だけで簡易水道を敷くことを決意しますが、試掘するも失敗の連続でした。東北大学の地質学の権威の先生から深井戸が有望であるとの助言を受け、次に深井戸の試掘に挑みます。
深井戸にいちるの望みをかけ、百数十mを掘りましたが水量不足で2度の失敗。ようやく3度目に110mを掘ったところで水源の確保に成功しました。
水源を確保した吉田浜の人たちは、同じく水源で苦しむ代ヶ崎浜の人たちとともに、再び町議会へ請願し、町も町営事業として進めることを決定しました。
昭和34年に代ヶ崎浜、吉田浜、花渕浜の3地区の工事が始まり、その後、他の地区にも広がっていきました。
昭和34年に簡易水道工事が始まり、6年間で町内全域100%の水道が普及したのは、県内でも例がなく知事から表彰されるほどでした。急ピッチだったということは、それだけ七ヶ浜町にとって水の問題は切実だったのです。
いわば、吉田浜の有志の熱意が町を動かし、今日に至ったと言っても過言ではないでしょう。当時の苦労の様子を記した水道記念碑が君ヶ岡公園にあります。
当時の水は、町内9カ所の深井戸から賄っていましたが、海苔養殖が盛んになるにつれ、更なる水の確保が必要になり、昭和45年からは、川崎町の釜房ダムから水が引かれました。
さらに、昭和48年からは、塩竈市からの受水も加わり、翌49年に君ヶ岡に当時県内最大の5千立方メートルの貯水タンクが作られました。

■水はどこから
《8つの市町を通って七ヶ浜に》
現在、七ヶ浜町の水道水は、七ヶ宿ダムから約95%、釜房ダムから約5%を引き、七ヶ宿ダムの水は宮城県、釜房ダムの水は仙台市から受水し、水を買っていま水場でろ過、消毒され、水をきれいにして七ヶ浜町に届きます。
東日本大震災の時、七ヶ浜町に水が届きはじめたのは4月に入ってからでした。その理由は、七ヶ浜町の復旧だけでなく、七ヶ浜町に届くまでの市町でも水道管などの水道施設が被災し、都度、復旧させながら水を通したからでした。
二つのダムからの水は、いったん君ヶ岡の貯水タンクに蓄えます。

君ヶ岡の貯水タンクは現在3つあり、8500tの水を蓄えることができます。
ところで、なぜ、君ヶ岡に貯水タンクを建てたのでしょう?それは、君ヶ岡が海抜58・4mあり、七ヶ浜町で一番高い場所だからです。この高さからですと、町内全域の家庭に自然の高低差で水を届けられるんです。
ちなみに、3つの貯水タンクには、それぞれの役割があります。右下の写真をご覧ください。
まず、奥の二重になっているタンクの上部のタンクが、町内でも高い地域である亦楽と吉田浜地区の一部用(500立方メートル)で、下部(3千立方メートル)と手前のタンク(5千立方メートル)がそれ以外の低い地区用です。
貯水タンクから出た水は、町内5ヵ所の蛇口の水で毎月、大腸菌などの細菌検査と毎日の色や濁り、残留塩素などの水質検査を行い、安全な水であることが確認されて、皆さんの家庭に届けられます。