- 発行日 :
- 自治体名 : 宮城県七ヶ浜町
- 広報紙名 : 広報しちがはま 令和7年10月号
梶賀千鶴子(かじか ちづこ)さん(仙台市)
七ヶ浜国際村パフォーマンスカンパニーNaNa5931・SCSミュージカル研究所芸術監督、演出家、ミュージカル作家
朝ドラの『あんぱん』を観ていて、いずみたくさんが出たとき、私この場面の5年後には、いずみたくさんと一緒に仕事をしていたんだなぁと懐かしくなりました。いずみたくさんは、お芝居が大好きで「ミュージカルを創りたい」先生でした。詞を持っていったらすぐ歌うの。朝ドラ通りの楽しい方でしたよ。
未熟児で生まれた私を母は丈夫に育てたいとバレエを習わせ、私の初舞台は3歳の時。両親は私を「生きているだけで奇跡」という思いで好きなことをやらせてくれました。
私がミュージカルをはじめて知ったのは映画ですね。特に『ウエストサイド・ストーリー』は、おにぎりを持って映画館で何回も観ました。後に私が自分の劇団でミュージカルもどき作品の振付け・演出をしたとき、仙台までわざわざ劇団四季の方が観にきてくださり、入団しないかと誘われました。四季が本格的にミュージカルに取り組もうとしていた時期で、入団してからはもうミュージカル漬けの日々でしたね。私にとって全身で表現するミュージカルの世界はとても魅力的でした。
入団後まず取り組んだのは、ロンドンやニューヨーク(ブロードウェイ)で上演されている作品を日本版にすること。なかでもロンドンで『キャッツ』を観たとき、国際電話で演出家の浅利慶太さんに「これは絶対四季で、しかもテントのような専用劇場を建ててやるべき」と進言しました。日本版の初演では浅利先生が演出、私は演出補として振付けの山田卓先生と共に、ロンドン版とブロードウェイ版両方の良いところを取り入れながらつくりました。
一方、ファミリー向け国産ミュージカルもたくさん創りました。ニッセイ名作劇場として劇団四季が上演した『ガンバの大冒険』『ユタと不思議な仲間たち』『人間になりたがった猫』『魔法を捨てたマジョリン』『エルコスの祈り』などがそうです。
1986年に劇団四季を離れフリーの演出家になってからは、サミー・ディビスJrの『ゴールデンボーイ』日本初演版、松本幸四郎さん主演『世阿弥』、冨田勲さん音楽によるオペラ『ヘンゼルとグレーテル』などのそれぞれ台本・演出のほか、ホリプロなどの作品にもたくさん関わり、すさまじく楽しく生きてきたんです。
◆文化は体に積もり、内側に内在化されていく
七ヶ浜とのおつきあいは2000年からです。当時の市民ミュージカルのスタイルは公演の度に出演者を募集し、終了後解散するというのが一般的でした。
そこで、七ヶ浜でのミュージカルづくりをお引き受けする際にお願いしたことは、一過性のものではない子どもたちの育成事業として、はじめの1年間は公演をせずに身体づくりをさせていただくこと、そして、作品には七ヶ浜のことばや言い伝え、歴史など地元の題材を取り入れさせていただくことです。
ミュージカルは音楽表現であると同時に身体表現でもあります。文化はその土地の人々の体に積もり、人々の内側に内在化されていくものだと考えています。そのためには時間がかかります。
ところが、レッスンを始めてみると、ミュージカルの技術よりもレッスン受ける姿勢やお行儀を教えることに1年かかったんじゃないかな。なかにはやんちゃというか、がらっぱちみたいな子がいて、ヤンキーなお母さんたちもいましたね。でもそれはある意味で七ヶ浜の子どもらしさなんです。むしろやんちゃな部分を否定せず、舞台上の役割の中でどのように生かし、表現するかが重要なんです。自分が表現したことに対して拍手をもらうと、それが達成感や自信、誇りにつながって、目に見えないものが積みあがっていきます。人柄は表現に出るものです。徹底的に舞台で表現し、それを繰り返しながら人格が形成されていきます。
子どもたちには、ミュージカルを通じて自分の町を知ってもらいたい、そしてあなたたちが生きているこの時代は「先人がいて今がある」ということも自覚してもらいたかったんです。
仙台空襲の直後に生まれた私は80歳ですが、舞台では90歳でまだまだ現役の方もいらっしゃる。パツッと出来なくなった時が終わりだと思っています。パツッとできなくなったらおとなしくするしかない。
最近はランチに誘われても「そのうち」という言葉は使わなくなったの。「そのうち」でなくて「今のうち」。あいまいに生きてはいられない!この肉体がある限り、すさまじく楽しくやっていかなきゃ。
