文化 中山町歴史散策第216話 美術と工芸郷土の画人その3

西塔太原の生家には、「唯一心」「洛陽藤氏」の雅印が残されています。どちらも師の谷文晁が使用した雅印で、印とともに、「写山楼画本」一巻と「画学斎画本」一巻も贈られています。写山楼と画学斎はどちらも谷文晁の画房の号です。この画本2巻は町指定文化財となっています。太原の別号には、愛山、大原、出羽太原などがあります。太原時代の傑作は、生家所蔵の天保14年(1843年)8月18日作「赤壁之賦に題す」彩色屏風一隻といわれています。郷土に残された作品は数多く、花鳥山水を得意とする雄渾大胆な画風を本領とする一方、柳沢の石子神社や御嶽神社の格天井絵に見られるように、描法が精緻な一面もあります。服部武陵(文新田)、浅倉旭斎(新田町)、大友素堂(上町)、武田墨霞(山辺町)、佐藤大梁(山形市中野目)など優れた門人を育成し、近世における山形地方日本画壇の元祖ともいわれました。
西塔太原の高弟として知られる服部武陵は、享和2年(1802年)文新田の豪農服部家に生まれ、幼名を文輔、本名を信義といいます。のち、15代目服部文右衛門を襲名しました。師である太原の教えを受け、大胆な画風の作品が多いのが特徴です。町内にある八坂神社に奉納した「黄石公・張良之図」は佳作といえます。また、漢学、算学、書道にも優れ、私塾を開設し、多くの門人を育てました。明治8年(1875年)74歳で亡くなりました。
服部武陵の門人の中でも特筆されるのは、地方唯一の専門画家として帝国絵画協会会員に登録された小松雲涯です。また、武陵の長男も旭峰と号し絵と書を能くしました。武陵と同じ西塔太原の門人としては、新田町の浅倉旭斎と上町の大友素堂がいます。
浅倉旭斎は、寛政3年(1791年)新田町の浅倉(もとは朝倉)家に生まれ、六代目浅倉勘兵衛を襲名しています。20数年、長崎村の名主を務め、民生に尽くした功により時の柴橋代官池田仙九郎から木杯を受け、苗字帯刀を許されています。作品は多くはありませんが南画を能くし、八坂神社に「八岐大蛇退治図」を奉納しています。また、菩提寺の天性寺に寄進した「釈迦三尊・十六羅漢図」(3幅)は見事な作品です。
大友素堂は天保2年(1831年)新田町の六代目浅倉勘兵衛の三男として生まれ、はじめ勘蔵、のち立介と称しました。実父の旭斎同様、作品は多くありませんが、南画を能くし、八坂神社に奉納した「日本武尊熊襲征討図」は佳作です。

※引用
中山町史中巻第10章第3節文芸と美術工芸