- 発行日 :
- 自治体名 : 山形県中山町
- 広報紙名 : 広報なかやま 令和7年9月15日号
柏倉南邸は、天明2年(1782年)、岡地区の柏倉九郎兵衛家に生まれ、通称敏、のち良達とも称し、6代目柏倉九郎兵衛を襲名しました。
はじめ、細井平洲(ほそいへいしゅう)の櫻鳴館に学んだと伝えられますが、詳しい事情はわかっていません。後に、仙台瑞鳳寺住職の南山禅師について漢学と書法を学びました。南邸の号は師の一字を許されたものです。
天保4年(1833年)、師の允可を受けて帰郷しました。同6年(1835年)に、前柴橋代官池田仙九郎の永年の治績を記念し、日和田村(現寒河江市日和田)に頌徳碑を建立することとなり、南邸は碑文の揮毫を依頼されています。当時、南邸の名声は高く、村山地方随一の書家と評されていました。南邸の遺墨には、岡観音堂の幟や小塩地内の大神宮碑などがあり、大文字の跡が見事です。
画家の西塔太原とも親交が厚く、ともに安政年間の「最上十狂」(10人の達人の意)の一人と称されました。嘉永7年(1854年)、74歳で亡くなりました。
■語句の説明
細井平洲:享保13年(1728年)に尾張国知多郡平島村(愛知県東海市)平洲村に農家の次男坊として生まれた。江戸時代の儒学者。名は徳民、字は世馨、号を平洲・如来山人、通称は甚三郎、別称を紀平洲などと称した。名古屋に出て、中西淡淵(なかにしたんえん)に学び、長崎に遊学の後、江戸へ出て、私塾「櫻鳴館」を開き、多くの人材を育てるとともに、中国の古い書物を研究し、学者として知られるようになった。実学を重んじ、経世済民(世を治め、民の苦しみを救うこと)を目的とした彼の教えは、全国各地の大名から一般庶民まで幅広い層の心をとらえた。明和元年(1764年)、米沢藩中興の祖と言われる上杉鷹山の師として迎えられ、藩学興譲館を興して士風を振興した。
遺墨:故人が書き残した書画。
※引用
中山町史中巻第10章第3節文芸と美術工芸