文化 写真が語る「いわき」の歴史

■駅名改称で綴から内郷へ
明治22(1897)年4月、全国的に実施された「明治の大合併」(市制・町村制)において、政府は具体的な要件として、300〜500戸の単位で全国的に半ば強制的に合併を推進しました。
平と湯本の間においては、明治19(1894)年12月末における合併対象8か村の戸数は312戸(2,233人)でした。突出して大きな村がなく村名が決まらなかったことから、一帯が古くから内郷と呼ばれたことを理由に「内郷村」と名づけられました。ちなみに村役場は旧御厩村に設置されました。
合併から8年後の鉄道敷設と駅開設。当時の住所は内郷村大字綴でしたから、駅命名は大字名から取ったことが容易に理解できます。内郷という村名はまだ馴染んだものではなかったものと考えられます。
ところが、明治時代後期から石炭産業が大きく発展して人口が著しく増えました。昭和17(1942)年8月には単独で内郷町へ。さらに人口が3万人を超え、昭和29(1954)年7月には単独で内郷市となりました。
炭鉱から綴駅までは、4本の石炭運搬用専用鉄道が敷設され、石炭の発送地として、全国1位の貨物取り扱い駅となったこともありました。もはや大字「綴」の域を大きく超える存在となっていたのです。
内郷市は市制施行したのを機に、綴駅から内郷駅への改称を水戸鉄道管理局に要望しました。これらの運動が功を奏して駅名改称が成りました。昭和31(1956)年12月のことでした。
(いわき地域学會 小宅幸一)