文化 定信紀行 第七話 古関蹟碑(こかんせきひ)のこと

寄稿 市文化財保護審議会委員 佐川 庄司(さがわ しょうじ)

「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年も又旅人なり(中略)春たてる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心くるわせ(後略)」
松尾芭蕉(まつおばしょう)の不朽の名作『おくのほそ道』の序文である。元禄2年(1689)芭蕉は門人曾良(そら)を伴い白河の地を踏んだ。「卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良」。しかし、実際には白河関跡の場所が判然とせず、複雑な心境での白河関越えであった。その心境を芭蕉は次の俳句にしたためている。「西か東かまず早苗にも風の音」「関守の宿をくいなにとおふもの」(俳諧書留(はいかいかきとめ))。
芭蕉の関越えから111年後の寛政12年8月、松平定信(まつだいらさだのぶ)は「古関蹟碑」を旗宿関の森に建立し、当地が白河関跡であると断定した。碑の裏面には定信自筆の漢文にて次の断定理由が記されている。
「白河関跡堙没(いんぼつ)してその處(ところ)を知らざること久し。旗宿(はたじゅく)村の西に叢祠(そうし)あり、地隆然として高し。(中略)これを図・史・詠歌に考え、また地形・老農の言に徴するに、これその遺址(いし)たるは較然(こうぜん)として疑わざる也(以下略)」
この碑文によれば、図は絵巻などの絵画、史は文献類、数々の詠歌などをもとに考察し、地形や伝承なども参考にして、この地こそ白河関跡の地であることが明白だと記している。
定信は、白河藩領内にかつて存在したはずの歌枕「白河関」の地を、当時として考えられるあらゆる資料を駆使し、その研究成果として関跡を断定し、碑を建立したのであった。このように定信は歴史学者としての顔も持っていたと言える。

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