文化 古河歴史見聞録

■穴のあちらに見えるもの
~異世界を見る作法~

○穴はあるのかないのか
ドーナツの穴について、それが存在するのか不在性を示すのかという議論がある。そんなことからドーナツの穴だけ残して食べる方法はあるのだろうか、なんてことも。そんな話を聞いているうちに、なんだか似たような物を見たことを思い出した。茨城県内のとある神社のことだが、裏手に回ってみたら、ドーナツ状に穴の空いた石がいくつも奉納されていたのである。

○「見える」という願いのために
「めめ」と書かれた絵馬が奉納されており、近所の人の話によれば、いつの物か分からないが、眼病平癒(へいゆ)のために祈願した物という。石をも穿(うが)ち、穴を通してその向こうを見通そうという願いの強さが、現れた物なのでしょう。

○ナニが見える「未来」「正体」
ところで、こんなふうに、何かを通して見るという行為には、さまざまな意味が込められていたようです。
民俗学者の常光(つねみつ)徹さんは、自分の股の下から覗(のぞ)くことで、妖怪の本性や未来の吉凶を見ることができるという伝承に注目し、逆さまに見ることが象徴的に日常をひっくり返し、非日常と通じ合う手段であるとしています。それには何かのフィルターを通すことが前提で、股下であったり、袖の下であったりと、さまざまなツールを要していたようです。
障子のような物もその一つ。紙一枚で隔てられているけど、機織りをしているところを覗くことで、正体がばれてしまい、鶴となって去ってしまう。覗いちゃうと、こんなことになっちゃう。
河鍋暁斎(きょうさい)の『暁斎百鬼画談』では、壁を切り裂いて穴を開け、爪をむき出して、百鬼夜行を覗き見るあやかしの様子も描かれている。ということは、そんなに頑丈ではなくとも、何かを透かして覗き見ることに意味があったのでしょう。それが、異世界を見る一つの作法だったとも言えそうです。

○その正体に油断はならぬ
穴を覗くって言えば、東山田でこんな話を聞いたことがある。
馬は獣がいると立ち止まるっていうそうですが、馬車で荷物を運んでいた頃のこと。馬方さんが馬車を止めて休んでいると、美しい女性がその前を通り過ぎた。手拭いかぶって、顔隠して。おやおや、ちょっとおかしいなぁ、と馬方さん、後をついて行ったって。すると女性は近くの茶屋の中ヘ。気になっちゃって馬方さん、障子に指を刺して中を覗く。すると、すーっと曇っちゃうんだって。それでも見たい気持ちが強くって何回も指を刺して覗く……。突然、がちゃーんとひっくり返ったって。気が付くと、馬の尻に指突っ込んで、後ろ足で蹴られてたって。
うかつに覗こうとするとろくなことはない。アタクシの場合、穴の向こうに何か見えようとも、決して障子に穴を開けたりはしません。そこから覗いて、未来や正体なんぞ知らないほうが、家庭円満なのかもしれないし、この年になってから、鶴のようにどこかへ去ってしまわれないように。

古河歴史博物館学芸員 立石尚之