- 発行日 :
- 自治体名 : 茨城県笠間市
- 広報紙名 : 広報かさま 令和7年7月号
昭和16年(1941)12月の真珠湾攻撃をきっかけに日本は太平洋戦争に突入し、多くの命が失われました。
今年は終戦から80年の節目。
長い月日が経ち、戦争を実体験として知る方が少なくなるなか、当時の記憶を共有・継承していくことが改めて重要視されています。
記憶や記録を振り返り、当時を生きた方たちと自身を重ねる。
戦争の悲惨さと平和の尊さを考え、平和への誓いを持つ。後世が平和であるよう、惨禍の記憶と教訓をこれからにつなぐ特集です。
■戦争と笠間
昭和6年(1931)の満州事変から約15年間続いた戦争で、住民の生活は大きな影響を受けました。
「食糧の絶対確保が必勝の鍵」として、政府から米を差し出すことを強く求められ、農村からも出兵が増えたことによる労働力不足で、まちは食糧難となりました。当時の人々は、ドングリやサツマイモなど代用品の確保に努めていたといいます。戦況が悪化すると、「少しでも国民みんなでお金を出して武器に充てよう」という働きかけから、住民の生活はさらに切り詰められました。特に農村部では、昭和4年の世界恐慌の影響を受けていたこともあり、この頃は飢えによって亡くなった方も少なくありませんでした。
昭和19年(1944)になると、大都市の空襲が次第に激しくなり、何万人もの子どもたちが避難のため、地方へ疎開していきました。
昭和20年2月には、アメリカ艦載機グラマンの襲撃があり、笠間市内も機銃掃射の被害に遭いました。当時の笠間駅周辺を回想した記録では、次のように記されています。
「2月25日、どんより曇った日でした。朝警戒警報が鳴って、すぐに空襲警報が発令されると、やがて艦載機のグラマンが3・4機やってきました。爆音をたてて、北の方へ飛んでいったと思うと方向転換して、後ろの方から飛んできて火花を散らして『ダダダダダダァ』と、機銃掃射をして飛びあがっていきました。駅前通りの家では、機銃掃射され、屋根に穴があいたり、きなくさい臭いが今もしていると騒いでいました。悲しさと悔しさでガタガタ震えがきたことを思い出します。」(引用『笠間市史下巻』P417-418)
そして、昭和20年8月15日、終戦を迎えたものの、住民の落胆と不安はとても大きいものでした。
■筑波海軍航空隊
昭和9年(1934)、霞ヶ浦航空隊友部分遺隊が旧友部町に開設され、練習機による操縦教育がはじまりました。4年後には「筑波海軍航空隊」として独立。下宿先として海軍兵を預かる家庭も多く、住民にとって筑波海軍航空隊は身近な存在でした。
昭和16年(1941)、ハワイの真珠湾攻撃を皮切りに始まった太平洋戦争により、戦争は激化。多くの海軍飛行予科練習生出身の隊員が筑波海軍航空隊に入隊し、「鬼の筑波」と恐れられた猛特訓に励みました。
さらに戦争が激しくなった昭和19年から、零式艦上戦闘機(零戦)が配備され、実戦部隊として特攻隊が編成されました。
昭和20年2月、アメリカ艦載機グラマンによる襲撃を、筑波海軍航空隊から零戦・紫電が迎撃し、空中戦が展開され、23名が戦死しました。
■若くして散った尊い命 15年戦争※の戦没者
旧笠間市:961人
旧友部町:427人
旧岩間町:325人
※満州事変から太平洋戦争終結までの期間
■平和への思いを寄せる
戦争の悲惨さと平和の尊さを後世に語り継ぎ、戦没者とその御遺族に追悼の意を表すとともに、恒久の平和を祈念するため、「戦没者追悼式」と「筑波海軍航空隊慰霊の集い」を市内で行っています。5月24日に行われた「筑波海軍航空隊慰霊の集い」では、航空隊員の遺族や地元関係者、隣接するこども園の園児たちが、戦争で亡くなった隊員を偲びながら献花台に花を手向けました。
■参考文献
『友部町史』(1990)、『笠間市史』(1998)『岩間町史』(2002)、『新笠間市の歴史』(2011)