文化 かさまのれきし第85回

■蒲生郷成(がもうさとなり)伝
本紙「かさまのれきし」第二八回「笠間城跡」の中で、石垣をつくったのは蒲生郷成であることが書かれていました。そこで、今回は郷成にスポットを当て、数少ない資料から人物像を考えていきたいと思います。
山田勘蔵『蒲生氏郷小伝』や「蒲生軍記」(宝暦四年(一七五四))によると、郷成は坂源次郎(さかげんじろう)といい、尾張(おわり)(愛知県西部)に生まれ、柴田勝家(しばたかついえ)の家臣でした。その後、蒲生氏郷(うじさと)の家臣になり、豊臣秀吉の九州征伐に伴い、郷成も九州に出陣しました。島津氏征伐の際、豪勇で名高い熊井越中が守る豊前(ぶぜん)(福岡県東部)と筑前(ちくぜん)(同中部から西部)の国境の岩石(がんしゃく)城は剣山絶谷(けんざんぜっこく)の要害の地で、氏郷は秀吉に願い出て、岩石城攻略の戦陣を張りました。この時、坂源次郎は先陣を切り、勇猛果敢に攻め上り、見事一番乗りを果たしました。この功績が認められて氏郷より蒲生姓と氏郷の「郷」の一字をいただき、蒲生源左衛門郷成(がもうげんざえもんさとなり)と名乗ります。
郷成の活躍ぶりは、次のことからもいえます。会津の氏郷が伊達政宗と対峙(たいじ)したとき、郷成は最前線の白石(しろいし)(宮城県白石市)城代に任命されました。また、天正十九年(一五九一)二月には豊臣秀吉に陸奥国(むつのくに)南部七郡(岩手県北部から青森県付近)を安堵(あんど)された南部信直(のぶなお)に対して、一族の九戸政実(くのへまさざね)(南部領の北糠部(ぬかのぶ)郡九戸領有)が反乱を起こしました。蒲生氏はこの鎮圧に参加しましたが、「九戸出陣陣立(じんだて)書」(福島県立博物館蔵)によれば一番手右翼が郷成であったと記されています。郷成への氏郷の信任が厚いこともわかります。
「石川正西(しょうさい)聞見集」の中に郷成に関する記述があるので紹介します。この著者は、笠間藩主松平康重(やすしげ)の子で石見国(いわみのくに)(島根県)浜田藩主松平康映(やすてる)の元家老石川正西(昌隆(まさたか))です。正西は万治二年(一六五九)秋、藩主周防守(すおうのかみ)康映の命を受け、生涯の見聞を記述し、翌年八七歳のとき「聞見集」と名付け、主君に献上しました。この「聞見集」によれば、郷成は、笠間在城のとき家中(かちゅう)に早起きして乗馬すること奨めました。また、笠間の町人や百姓に、家作りのために惜しまず木を切らせました。さらに、笠間城を改修し、「笠間は此元の御城のごとく山城に天守を源左衛門殿たて候(そうろう)。よそより見かけは天守のやうにて、内のからくりは岩の上長きみじかき(短き)つかはしら(束柱)をたて物不入のたくミ(巧み)、さてもさても才覚者(さいかくしゃ)にて御座候つる」と評されました。
郷成は、石垣普請(ふしん)にも精通した人物です。『長沼町史』に次のように書かれています。
天正十八年(一五九〇)八月、蒲生氏郷が会津の領主になりますと、長沼城(福島県須賀川市)には重臣が城代に任命されました。天正十九年より郷成とあるのは、『二本松市史』4「会津蒲生分限士録稿」に、「二本松・長沼・白石・安子嶋(あこがしま)・守山・三春城主」とありますので確かでしょう。この六か所の人事異動は安子嶋を除いて石垣構築のためと考えられています。穴太(あのう)衆を率いる郷成は短期間に数城に転出し、石垣を築きました。
笠間城でも穴太衆を使い、石垣を築いたと考えられます。「石川正西聞見集」で郷成は、江戸城大手口(江戸城正面入口)の石垣積み直しを指揮して、将軍徳川秀忠に賞されたと記されています。
その他、治水事業にも取り組み、上市毛村や下市毛村の水不足を解消するために涸沼川の取水口(関場)から上市毛用水(蒲生用水)の用水路を建設しました(『笠間市史上巻』)。
郷成は豪傑(ごうけつ)で、城作りでは才を発揮し、蒲生氏郷・秀行親子に仕えた人物で、現在は福島県須賀川市の長禄寺墓地に静かに眠っています。

市史研究員 福島和彦(ふくしまかずひこ)

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