文化 歴史にふれる

■歴史散歩 崎浜の東江(とうこう)先生
市民学芸員の飯塚良哉(いいつかりょうや)さんが、崎浜の東江先生について話してくれました。

江戸時代末から明治初年にかけて、寺子屋や家塾が各所にありましたが、崎浜にも宿通りの中ほどに山口仙助が開いていた家塾がありました。仙助が「東江」と号していたことから、近隣の人たちは、「東江先生」と慕って、学業ばかりでなく、日常の困りごとまでなんでも相談していたようです。
東江先生は、文政9年(1826)崎浜に生まれ、家は裕福ではなかったようですが、幼少から向学心に燃え、地元の殿岡清兵衛に学び、さらに田伏の服部本英塾や長岡(茨城町)の関白庵などで学業を重ねられました。
帰郷して間もなく、その名声を知った村人たちに乞われ、家塾を開いたのは、嘉永5年(1852)と伝えられています。塾は、木っ端葺きの粗末な家の一室を当て、漢学を中心に論語などを教えていましたが、非常に熱心で、冬の西風が吹けば、屋根や壁の板がバタバタと音を立て、隙間からはヒュウヒュウと寒風が吹きこむ中でも、先生は泰然として教授し、子どもたちも先生に絆(ほだ)されるように先生の教えに応えていたとの話もあります。また、生活は清貧そのもので、嵐で屋根が吹き飛んでしまったときは、村人総出で復旧作業に当たったと語り草になっています。そのため、大勢の希望者がありながら、常時5~6人しか教授できなかったようですが、それでも教えを受けたものは総勢500人を超えると伝わっています。その傍ら、明治5年の学生発布後は、学校設立に向けて奔走し、同10年に加茂小学校が開設されると、理事として教授として9年間奉職しました。退職後は、近隣の人たちに慕われながら、細々と悠々自適の生活を送り、先生が67歳の時(明治27年)、徳を慕う教え子たちは、固辞する先生の声に耳を傾けることなく、先生の頌徳碑(しょうとくひ)を近くの八坂神社境内に建立しました。堂々とした頌徳碑を目にした先生の胸中はいかばかりだったろうか。
※碑の撰文書は野口勝一氏(野口雨情の伯父)です。

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