- 発行日 :
- 自治体名 : 茨城県五霞町
- 広報紙名 : 広報ごか 2025年4月号
歴史が語られることもなく静かに眠り続ける五霞の町
縄文から江戸時代にかけ、いつの時代でも五霞町は関東の歴史の真ん中にいた
馬が嘶き、雄叫びが宙を舞う 中世の五霞
◆幕開け 源平・鎌倉時代
中世の扉をこじ開けたのは源頼政と五霞ゆかりの下河辺氏と渡辺党であった。
▽源平時代
以仁王(もちひとおう)を奉じ源頼政が打倒・平氏に起つ(源平合戦の始まり)
・藤原秀郷の子孫が荘園を開発し下河辺氏を名乗り、源頼政の郎党となる。兄 行平は古河、弟 政義は五霞に館を構える。
・源頼政は宇治の合戦で敗れ自刃。その首は古河で祀られる。・行平は頼朝に「以仁王の令旨」を伝え、頼朝の挙兵に参加し、小手指ケ原(五霞)で源義広を破り、頼朝の関東制覇に貢献。
▽鎌倉時代
「宇治川の先陣争い」の名馬と五霞
・「奥州藤原氏征伐」で源頼朝率いる人馬の大群が五霞の鎌倉街道を北上し、宇都宮から奥州へ。
・その帰路、「宇治川の先陣争い」で有名な名馬・生月(いけづき)は佐々木高綱の陣屋(幸主)で力尽き、磨墨(するすみ)は梶原景季の館(小福田)前の「する墨の池」で傷を癒した、との伝承があります。
◆真っ盛り 南北朝・室町時代
五霞の地に「歴史的な神社仏閣」の花が咲く
・五霞が属する下河辺庄は、その経済基盤の豊かさ故に、常に時の権力者から支配され続けました。
・室町時代には足利氏の御料所となり、鎌倉から奉行の野田氏が派遣され、古河城にて当地を管理しています。
・古河公方誕生時、野田氏は古河城を公方へ譲り、自身は栗橋城(五霞)に移り、以降130年間、公方を支えました。
浄土宗藤田派の本山「無量寿寺」1314年
新田義貞が開基の「正徳寺」1336年
3代鎌倉公方・足利持氏開基「法宣寺」1392年
山王権現が夢枕の「東昌寺」1429年
初代古河公方建立「天満宮」1445年
◆終焉 関東戦国時代
・公方派vs管領派が激突した関東戦国第一幕。共倒れの背後に忍び寄る北条の足音。
・謙信の関東越山で始まる北条vs反北条の第二幕は、五霞を巻込み戦場としました。
▽合戦の戦場となった五霞(1565~1573)
・関宿城をめぐり、北条vs反北条の激しい争奪戦が三度繰り広げられ、五霞が戦場となりました。
・三度目は、北条軍3万の猛攻に謙信や佐竹の援軍も間に合わず、簗田氏はついに力尽き、ここに、北条氏の北関東進出の拠点が確保されました。
▽栗橋城(五霞)が公方様の御座所になる(1574~1581)
・合戦後、五霞には北条氏照旗下の栗橋衆が常駐、北関東侵略の拠点となりました。
・この間、北条氏の手で栗橋城の掘割の拡充、新宿(小手指)や新道(関宿往還)も開発され、五霞が整備されました。
・翌年、5代古河公方・足利義氏が栗橋城へ移座され、諸侯に栗橋様と呼ばれた。
・又、足利氏姫様が誕生されている。
お問い合わせ:教育委員会 生涯学習係/五霞町の文化財を守る会
【電話】84-1460(直通)