文化 第4回 ごか町の歴史

歴史が語られることもなく静かに眠り続ける五霞の町
縄文から江戸時代にかけ、いつの時代でも五霞町は関東の歴史の真ん中にいた

「時代」の激流に飲み込まれた近世の五霞

◆安土・桃山時代≪小笠原氏の城下町時代≫
五霞は栗橋城の城下町であり、鎌倉街道の宿場町でもあり、房川渡しの関所でもあった。
・元信濃守護を父に持つ小笠原秀政は、徳川家康の関東入府時に当地を含め3万石の領地を与えられました。
・豊臣秀吉が破却した古河城を復元するまでの5年間、秀政は、栗橋城(五霞)を居城にしました。
・その間、義父の松平信康(家康の長男)の菩提を弔うため、隆岩寺を建立。秀政の妻・登久姫(信長と家康の孫)は隆岩寺で父の菩提を弔い、法宣寺で安産祈願をおこない、嫡男・忠脩(ただなが)が元栗橋で誕生しています。
・元栗橋は城下町として整備され、信濃町などもでき、古文書によれば、信濃にルーツを持ち、当地に土着した子孫の方もおられます。

◆江戸時代初期≪利根川東遷事業≫
江戸と五霞の運命を変えた大事業
家康「わしはここを大坂にしたい」
忠勝「江戸は水浸しの低湿地ですぞ」
直政「何本もの川が-。これでは雨が降る度、大洪水じゃ」
家康「伊奈忠次、まかり出よ」
忠次「江戸の背後に目を向けるべきです。私なら江戸へ流れ込む前に川そのものを曲げまする」

[東遷事業の要・赤堀川の開削]
総責任者:伊奈備前守忠次、息子忠政、忠治の親子三代
開発期間:元和7年(1621)~承応3年(1654)の34年間
開削場所:権現堂の分岐点から境町までの川妻村北側の7km

・利根川が自然にまかせて流れていた時代、洪水の影響を全く受けなかった五霞が、一転して、常に水害に苦しむ村へ変貌。
濁流で困難を極めた権現堂堤の修復作業も「順礼母娘」の人柱で洪水が治まり無事に完了

・四方を水に囲まれ、常に水害の危険にさらされながら水が自由にならない村、それが五霞。
こんな五霞に誰がした!!
「権現様、末代までお恨み申し上げます」

・水に囲まれた暮し-水害の五霞-
五霞には今も水屋と小舟が残っているお宅があります。

お問い合わせ:教育委員会 生涯学習係/五霞町の文化財を守る会
【電話】84-1460(直通)