- 発行日 :
- 自治体名 : 栃木県大田原市
- 広報紙名 : 広報おおたわら 令和7年11月号(No.1340)
■第4回 医療の発展に尽力した人々
本市出身の大関和(1858-1932)は、正規の訓練を受けた看護師(トレインドナース)として多くの功績を残した「日本の看護師の先駆者」といえます。現在、黒羽芭蕉の館では、企画展「明治のナイチンゲール大関和のふるさと黒羽と医療」を開催しており、和が生まれ育った黒羽の景観や文化的風土と共に、幕末維新期の黒羽の医療の一端についても紹介しています。今回は、同展示では取り上げられていない本市出身で医療の発展に尽力した人物を紹介したいと思います。
まずは江戸時代の儒学者・諸葛琴台(もろくずきんだい)(1748-1810)です。琴台は寛延元年(1748)に下蛭田村(現蛭田)に生まれました。幼いころより学問に励み、儒学者として多くの著書を残した琴台ですが、下野国内で初めての解剖に携わったことでも知られています。琴台の監督による解剖は、寛政年間(1789-1801)に日光で行われ、その様子は『解解屍新編(かいししんぺん)』としてまとめられました。
次に、種痘(しゅとう)の普及に尽力した北城諒斎(ほうじょうりょうさい)(1822-91)です。種痘とは天然痘(てんねんとう)という感染症をワクチン接種によって予防する方法です。このおかげで天然痘は、現在人類が地球上から撲滅できた唯一の感染症となりました。天然痘ワクチンは、寛政8年(1796)にイギリスの医師エドワード・ジェンナーによって開発され、日本では嘉永2年(1849)に国内で種痘が成功し、各地で実施されるようになりました。大田原では嘉永4年(1851)、諒斎によって実施されたのが初めとなります。
諒斎は文政5年(1822)、大田原藩医を務める家に生まれ、24歳の時に江戸に行き西洋医学を学びます。帰郷後は父の跡を継ぎ大田原藩の侍医となりますが、嘉永2年に再び江戸に行き、種痘について学びました。当時はまだ西洋医学の知識も浸透しておらず、病気もまじないで治ると信じる人もいた時代で、ワクチン接種に抵抗を示す人も多かったようです。そのような中にあって諒斎は、那須地方で種痘に尽力し、多くの人を救いました。
問合せ:文化振興課[本]4階
【電話】0287‒23‒3135
