文化 ~東(ひがし)の飛鳥(あすか)・下野と飛鳥の歴史を紐解く~

■第4回 世界遺産構成資産群「牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)」
しもつけ風土記(ふどき)の丘(おか)資料館

◇飛鳥(あすか)時代とは
6世紀(西暦500年代)から8世紀(700年代)初頭頃、現在の中国・朝鮮半島諸国を含む東アジア圏の諸国は大きな改変の時期を迎えます。我が国も東アジア諸国の変革に巻き込まれる中で、新たな国づくりが始まります。東アジア諸国に遅れをとらないよう情報を収集するために遣隋使(けんずいし)や遣唐使(けんとうし)を派遣し、その情報をもとに十七条憲法などの法整備をすすめ、政治改革に着手します。その改革の中で乙巳(いっし)の変(へん)、大化(たいか)の改新(かいしん)、壬申(じんしん)の乱(らん)などの政権争いを経験し、「日本」という国が出来上がっていきました。この様々なドラマがあった場所が現在の奈良県明日香村周辺で、「飛鳥」の地が政治・文化の中心地であった時代を飛鳥時代と呼んでいます。

◇牽牛子塚古墳
明日香村には高松塚古墳(たかまつづかこふん)や石舞台古墳(いしぶたいこふん)、飛鳥寺などの著名な史跡が残されていますが、最近テレビCMなどで取り上げられているのが、牽牛子塚古墳です。この古墳は八角形の形状からアサガオに例えられ、アサガオの別称から「牽牛子塚」とされたといわれています。
現在は明日香村が実施した史跡整備により、八角形三段の墳丘が復元されています。墳丘には白い二上山(にじょうざん)から切り出された凝灰岩切石が貼られ、真っ白に輝くピラミッドのように見えるとても綺麗な古墳です。
江戸時代から、この古墳は一つの巨石を刳(く)り抜いて二つの空間をつくる、特異な横口式石槨(よこぐちしきせっかく)であることが知られていました。大正時代に行われた発掘調査で、夾紵棺(きょうちょかん)の破片や七宝亀甲形飾(しちほうきっこうがたかざり)金具(棺装飾用の七宝焼製の八角形の飾金具)、人骨などが確認されました。2009(平成21)年度の明日香村教育委員会の調査では、墳丘の平面形は対辺約22mの正八角形で、墳丘斜面には貼石(はりいし)が施されていたことが分かりました。また、付近から牽牛子塚古墳の後に造られた方墳(ほうふん)が確認され、所在地の字名から越塚御門古墳(こしつかごもんこふん)と命名されました。

◇牽牛子塚古墳の被葬者
牽牛子塚古墳は規模が大きい八角形で、夾紵棺の仕様から、天皇やそれに準ずる人物が葬られたと想定されます。さらに、埋葬施設が当初から二名を埋葬する構造であり、分析結果では出土した歯が30~40歳代女性のものと想定されることから、この古墳は日本歴史上初めて2度天皇となった、皇極(こうぎょく)・斉明女帝(さいめいじょてい)と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)の墓、また、越塚御門古墳は孫娘の大田皇女(おおたのひめみこ)の墓であると考えられています。
『日本書紀』には天智天皇6(667)年条に斉明天皇と間人皇女を小市の丘(小市岡上陵(おちのおかうえのみささぎ))に葬り、さらにその陵墓の前方に大田皇女を葬ったことが記されており、この記述からも被葬者が想定されています。現在、石槨の暗い槨内では女帝たちの生きた時代を想像した映像が映し出されるよう整備がされています。

この丘の上から東を望むと、対岸の丘陵上には高松塚古墳や下毛野朝臣古麻呂(しもつけのあそんこまろ)が築造を担当した文武天皇(もんむてんのう)の御陵と想定されている、八角形の中尾山古墳(なかおやまこふん)を見ることができます。これらの古墳や都が造られた千数百年前、下毛野朝臣古麻呂を含め下毛野出身の人たちも、この綺麗な古墳を目にしたことと思われます。