- 発行日 :
- 自治体名 : 群馬県前橋市
- 広報紙名 : 広報まえばし 2025年8月1日号
今年は戦後80年の節目の年。昭和20年8月5日の前橋空襲では、市街地の約8割が焦土と化し、600人近い命が失われました。
本市では、犠牲者を慰霊するとともに、前橋空襲を語り継ぎ、平和の尊さを次世代に継承する取り組みが続けられています。
今年4月には、空襲の記憶を風化させないという思いを官民で共有し、検討を重ねてきた「前橋空襲と復興資料館」が開館。
戦争体験者が少なくなる中、戦争を体験していない世代が当時の記憶を受け継ぎ、次の世代へと伝える新たな取り組みも広がりつつあります。
■前橋空襲の記憶
ー13歳の私が見た前橋空襲ー
鈴木ヤエさん・93歳(大手町)
地域の戦争の歴史を知るには、実際に体験した人の声に耳を傾けることが大切です。前橋空襲を大手町の自宅で体験した鈴木さんに、当時の様子や暮らしについて聞きました。
◇防空壕で過ごした夜
昭和20年8月5日。13歳の鈴木ヤエさんは、庭に掘られた防空壕に家族と共に身を潜めました。父や兄が手作業で掘った壕は、深さ約1.5メートル。草や枝で覆い、米軍機から見えないように工夫がされていたといいます。
「空襲の数日前から米軍機が偵察に来ていました。米兵の顔が見えるほどの低空飛行で、ニヤニヤと笑っていたのを覚えています。夕食後に警報のサイレンが鳴り、家族7人で日付が変わる頃まで壕の中で過ごしました」
22時30分頃、本市上空東側から米軍機B29が市街地を爆撃。1時間半以上攻撃を続け、街は炎につつまれました。
「空襲後、真夜中に荷物も持たず逃げる人たちを見ました。利根川の崖下に避難する人もいて、家を失った人は洞穴のようなところで暮らしていました」
◇焼け落ちた母校
「悲しみが込み上げてきたのは、小学校の同級生が亡くなったことを後で知ったときです。通っていた前橋高等女学校(現在の前橋女子高)の校舎は空襲で焼け落ち、先生から焼け跡の片付けに来るようにとの話がありました。ガラスが泡を吹いたように散らばり、この先どうなるんだろうと不安な気持ちでした」
◇知らずに関わった風船爆弾
「女学校時代、体育館で和紙を何枚も糊付けして重ねていました。何を作っているのかも分からず、ただ言われた通りに作業していました」
後になって、それが風船爆弾だったと鈴木さんは知り、驚いたといいます。風船爆弾は、日本がアメリカ本土を攻撃するため、気球型の爆弾を太平洋の気流に乗せて飛ばした兵器。女学生は、風船爆弾の外側の部分を作る作業に動員されていました。
◇終戦の知らせ
「8月15日の終戦の日、ラジオから流れる雑音混じりの放送を家族と聞き、父から『戦争が終わった』と告げられました。これで警報のサイレンを気にせず、夜も眠れるようになると安堵する一方、占領への不安もありました」
◇若い世代へ
「過去の歴史を含めて、日本や世界の動きを偏りなく受け止め、学んでほしいです。自由や平等がある今の社会を大切に、たった一度の人生を自分らしく生きてほしい。戦争によって命が奪われるような悲劇は二度と繰り返されてはなりません」