文化 行田歴史系譜372

■資料がかたる行田の歴史72
▽火災に対する備えの歴史
春は空気が乾燥し、火災が発生しやすくなる季節です。こうした時期に防火意識を一層高めようと、毎年3月1日から7日まで春季全国火災予防運動が実施されています。というわけで、今回は火災に対する備えについて歴史を紐解いてみましょう。
現代のような消火設備がなかった江戸時代。火災が起きた時の対処法といえばとにかく水を掛けること、そして建物火災の場合には延焼を防ぐため周囲の建物を壊すこと(破壊消防)もありました。行田町の記録「要中録(ようちゅうろく)」によると、嘉永4(1851)年に龍吐水(りゅうどすい)という消火設備が作られたとあります。龍吐水は大きな木箱に手押しポンプが付いたもので、中に水を溜めて人力で腕木を動かし、水を汲み上げて発射する仕組みです。行田市域では明治30年代まで、龍吐水が主力の消防設備でした。
明治40年代になると、龍吐水に代わって腕用(わんよう)ポンプ車が導入され始めました。星河村と須加村では、明治41(1908)年に腕用ポンプを購入したことが記録されています。明治43(1910)年に公設消防組を設置した持田村でも、腕用ポンプが導入されました。腕用ポンプは龍吐水と同じく人力で動かすものでしたが、放水性能が向上し、移動のための車輪も付いていました。同時期には、ガソリンエンジンを搭載したガソリンポンプ車も登場しました。さらに大正時代になると、忍町の公設消防組では蒸気ポンプ車が導入されました。これらのポンプ車は昭和初期まで主として使用され、昭和20年代以降はより現代的な設備へと切り替わっていきました。
最後に、一風変わった消火設備を紹介します(画像参照)。これは手榴弾(しゅりゅうだん)消火器というもので、「消火弾」とも呼ばれています。薬品や砂を詰めたガラス球を火元に投げ込んで消火する、初期消火のための道具です。消火液を噴射する消火器より安価だったため、昭和初期まで広く利用されました。戦時中は空襲による火災への備えとしても使われたそうですが、果たしてその効果はどれほどだったのでしょうか。
手榴弾消火器は、郷土博物館で開催中の博学連携展示「行田市のうつりかわり」で、4月6日(日)まで実物をご覧いただけます。
(郷土博物館 岡本夏実)
※画像は本紙をご覧ください。