- 発行日 :
- 自治体名 : 埼玉県行田市
- 広報紙名 : 市報ぎょうだ 令和7年10月号No.952
■資料がかたる行田の歴史79
▼南河原の俳人・松本分柳(ぶんりゅう)
▽これれやこの案山子(かかし)の笠もなれの果(はて)
上の句は、南河原出身の俳人、松本分柳(1771〜1843年)が古希を記念して天保12(1841)年6月に詠んだものです。今回は南河原が誇る俳人分柳の足跡を紹介します。
分柳の古希賀集「さるをかせ集」に収められた自序によると、分柳は天明年間(1781〜1789年)、熊谷の修験者(しゅげんじゃ)で俳人の野口雪江(せっこう)(1732〜1799年)に入門しています。雪江は「寛政の三名筆」としても著名な人物です。雪江の没後は、京都で芭蕉堂(ばしょうどう)を営む金沢出身の高桑蘭更(たかくわらんこう)、江戸に戻ると朝日庵鷹一にそれぞれ師事し、分柳は各地で俳諧修行を重ねていたことが分かります。
天保9(1838)年冬には、長野村馬場の彫工(ちょうこう)黒川庄兵衛と分柳らが中心となり、竹内路白(ろはく)の七回忌に故人の思い出と俳句を寄せ、追悼句集を仕上げています。路白の本名は竹内作右衛門(さくえもん)直道(なおみち)で、忍藩城付(しろつけ)四組(よんくみ)のうち谷郷組(やごうぐみ)の割役名主(わりやくなぬし)を務めた人物です。分柳の居村である南河原村をはじめ犬塚・馬見塚・中江袋各村も谷郷組に属していましたので、彼らは公私ともに交流のある者同士でもありました。
この句集の巻頭には、忍藩松平家の侍医(じい)岸田米山(べいざん)、儒者(じゅしゃ)芳川波山(よしざわはざん)、国学者・歌人黒沢翁満(おきなまろ)も名を連ねています。また、分柳の古希賀集「さるをかせ集」にも、近隣の門人だけでなく、身分を問わず全国の人々からも寄稿があり、故人を含めると実に350人を越えます。
俳諧という文芸が、忍城周辺の地域社会においても武士・町人・百姓といった身分の垣根を越えて嗜(たしな)まれていたことを物語っています。
(郷土博物館 澤村怜薫)