文化 青淵遺薫(せいえんいくん) 栄一のちょっと小話(こばなし)

■家を守った千代(ちよ)さん
栄一の妻『千代』は、天保12(1841)年、榛沢郡(はんざわごおり)下しも手計(てばか)村に尾高勝五郎(おだかかつごろう)と八重(やえ)の三女として生まれました。当時、女子の学問教育は必要とされていませんでしたが、兄の惇忠(じゅんちゅう)から、人として守り、行うべきことをよく聞かされて育ちました。
千代は、17歳の冬に栄一と結婚し、文久2(1862)年2月、待望の長男市太郎(いちたろう)が誕生しましたが、8月に麻疹(はしか)で亡くなってしまいます。翌年8月、長女歌子(うたこ)が生まれ喜んだものの、11月に栄一はいとこの渋沢喜作(きさく)と家を出て行くことになりました。血洗島(ちあらいじま)を出た2人は京都で一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に仕官し、その後、幕臣となり、栄一は慶喜の弟、昭武(あきたけ)のお供でフランスへ渡ります。栄一が留守の間、千代は家をよく守り、しゅうとの市郎右衛門(いちろうえもん)、しゅうとめのえい、小さな歌子と、夫の帰りを待ちました。
明治元(1868)年、栄一は無事に帰国し、血洗島へ一時帰り、父の市郎右衛門へ土産(みやげ)代わりに金百両を差し出しました。市郎右衛門は、「千代が多くの悩み事を堪え忍んで、実にまめまめしく私たちに仕えてくれた。口にこそ出さなかったが、いつも大変うれしく思っていた。それ故(ゆえ)、これはその褒美(ほうび)と思いなさい。」と、千代に百両を手渡しました。千代は、百両よりもこの言葉を有難く感じ、涙しました。
栄一が政府の役人、第一国立銀行の頭取(とうどり)になると、生活も東京に移ります。深川福住町(ふかがわふくずみちょう)へ屋敷を新築する時は、木材選びや建物の様式に千代の趣味が生かされ、家具も千代が整えました。この家は、数回の移築を経て、現在は東京都江東区潮見(しおみ)で、時を超えて受け継がれています。

写真出典:『渋沢栄一伝記資料』別巻第10,p.26,『渋沢栄一フォトグラフ』より