文化 [特集] 戦後80年 渋沢栄一と平和 ~人形を通じた平和への願い~(1)

終戦から80年。今、私たちが過ごしている平和で穏やかな日常は、戦争を経験した多くのかたの犠牲の上にあることを忘れてはいけません。
平和活動に尽力した栄一翁の功績を振り返り、改めて平和の尊さについて考えてみませんか。

◆平和活動に取り組んだ晩年
渋沢栄一翁は、古稀(こき)(70歳)を機に実業界の多くの役職を退き、以後、福祉・教育などさまざまな社会公共事業に尽力しました。平和活動もその中のひとつです。
第一次世界大戦後、反戦平和運動の高まりの中で、アメリカのウィルソン大統領の提唱により国際連盟(国際連合の前身)が成立すると、栄一翁はこれを世界平和の拠点と位置付け、同志たちと協議して日本に『社団法人 国際連盟協会』を創設し、諸外国の協会と協調して民間からの国際連盟支援運動を推進しました。
晩年には国際平和記念日(第一次世界大戦の休戦記念日)の11月11日に、国際連盟協会会長として、NHKラジオで全国民に向け、平和の訴えを放送しました。この放送は、4年続けて実施され、くしくも昭和6年の国際平和記念日である11月11日に、栄一翁は91歳で逝去しました。

◆日米親善の象徴『青い目の人形』
栄一翁は、民間外交にも積極的に取り組んでおり、日露戦争(明治37~38年)以前から大正期にかけて44回渡米するなど、日米両国のかけ橋となり日米親善に大きく貢献しました。日米親善の取り組みの一つとしてあげられるのが『人形』を通じた交流です。
昭和初期にかけて、日本からの移民を排斥するアメリカの法律制定の動きなどにより、日米関係は次第に悪化していきました。
そんな中、栄一翁に、宣教師として日本に滞在していた親日家のシドニー・ギューリック氏から手紙が届きます。『排日移民法(はいにちいみんほう)』の阻止に取り組んでいたシドニー・ギューリック氏は、日本には古くから『ひな祭り』や『五月人形』など人形文化が根付いていることに着目し、日本とアメリカの友情の印としてアメリカのこどもたちから、日本のこどもたちへ『親善人形』を贈り、日米の親善と交流を結ぼうと提案しました。
栄一翁は、この提案に応じ、日本国際児童親善会を設立し、日本側の受け入れの代表となりました。そして、同会の会長として、この提案に日本政府が全面的に協力するよう働きかけ、1927(昭和2)年にアメリカから約1万2000体の親善人形が日本に贈られました。
この人形は『青い目の人形』と呼ばれ、多くの日本人に親しまれ、栄一翁は、日米親善の希望を人形に託し、自ら日本各地を回りました。
また、日本からは『答礼答人形(とうれいにんぎょう)』と呼ばれる市松人形(いちいまつにんぎょう)(58体)がアメリカに贈られ、日本とアメリカの相互親善を図りました。
アメリカから日本に送られた青い目の人形は、その後の太平洋戦争中、敵国に関係するものといわれ多くが失われましたが、人形に罪はないと考えた人たちの手によって、ひそかに守られた人形が全国各地に現存しています。

◆受け継がれる平和への思い
日本各地のこどもたちに『青い目の人形』を贈って日米の関係改善に努めた米国人宣教師シドニー・ギューリック氏の孫であるギューリック3世氏は、その遺志を継ぎ、日本各地を巡り新たに人形を寄贈する活動を続けています。2016(平成28)年には渋沢栄一記念館に『シャノン』、八基小学校に『スーザン』の人形が贈られ、現在、同館で展示されています。