文化 郷土を知り、郷土を愛する「志木市 歴史さんぽ」-執筆・協力 志木のまち案内人の会-

■第61回 宗岡の大先達(せんだつ)日行星山
上宗岡4丁目志木ハイデンス脇に立派な石碑があります。「大教正日行星山彦命(だいきょうせいにちぎょうせいざんひこのみこと)」とありますが、大教正という立派な位(くらい)を持つ日行星山とはどんな人物なのでしょうか。
日本には寺社を中心として講という組織があり、代表が遠くの神仏をお参りに行く仕組みが作られ、その例として富士山に参拝する富士講があります。
志木には田子山富士築造以前の江戸時代から富士講があったと推測できますが、確実な資料はありません。一方で宗岡には、天明2年(1782)にできた丸藤講(まるとうこう)という富士講を組織した高田藤四郎(たかだとうしろう)の弟子である高野源治郎(たかのげんじろう)という人物がいました。源治郎は地元にも丸藤講を組織して初代先達(指導者)となり、そこから数えて八代目の先達、星野勘蔵(ほしのかんぞう)が日行星山です。
勘蔵は、嘉永5年(1852)に生まれ、明治5年(1872)にはじまった羽根倉浅間神社境内の富士塚築造に参加するとともに、明治8年(1875)に23歳ではじめて富士山に登拝、明治13年(1880)には先達の辞令と日行星山という行名(ぎょうめい)を受けました。以来昭和8年(1933)に病没するまで70回余りの富士登山を成し遂げたほか、明治25年(1892)には、富士山麓北口(山梨県富士吉田市)に「吉田胎内」という全長61メートルに及ぶ洞穴を発見するという功績を挙げました。この胎内は承平7年(937)の噴火による剣丸尾(けんまるび)の溶岩流によってできたもので、入り口に倒れた樹木の跡が残って肋骨状になり、人体内部のように見えるところから胎内と呼ばれます。また「吉田胎内樹型」として、世界遺産である富士山の構成資産の一つとなっています。
吉田胎内では、毎年4月29日に胎内祭が行われ、田子山富士保存会有志や星野家の子孫も参列しています。参列した人を見守るように、当時の日行星山や宗岡の人たちが建立した石碑が並んでいます。
宗岡石碑と富士吉田石碑をぜひ一度ご覧ください。