- 発行日 :
- 自治体名 : 埼玉県北本市
- 広報紙名 : 広報きたもと 令和7年8月号
■平和を『学ぶ』。
終戦から80年が経過し、戦争の惨禍を直接経験していない世代が増えている昨今、現代の若年層は戦争や平和をどのように捉え、また、平和を考えるきっかけに触れることで、どのようなことを感じているのでしょうか。「令和6年度北本市平和を考える集い」平和講話会にボランティアで参加してくださった北本高校3年生の土田怜菜さんは、戦争の認識・話題の受け取り方や、戦争体験世代とのギャップについて、若年世代のリアルな声を話してくれました。
◆埼玉県立北本高等学校3年生 生徒会長 土田怜菜さん
◇「令和6年度北本市平和を考える集い」平和講話会
生徒会顧問の先生から、北本市が主催する平和に関するイベントのボランティアとして生徒会が参加することになった旨の説明を受け、私は『世界連邦平和都市宣言』を朗読する担当として携わりました。
◇現代の若者が『戦争』を話題として受け取れるか
講話会は核爆弾や非核に関することがメインテーマでしたが、当時の状況が詳細すぎて、自分事として捉え、理解するのが難しいと感じてしまいました。平和な日本で暮らしている私や同級生からすると、戦争は遠い他の国や過去の物語であり、「自分たちには関係ない」「つまらない」と感じる若者が多いと思いますし、内容がリアルで怖いという印象が強いのも、関心を薄れさせる要因であると考えます。
とはいえ、それが真実であり、二度と起こしてはいけないこととして知るべき歴史でもあります。若年層にこの話題を理解させるのは非常に難しいことだと感じました。
◇自分の将来と『平和』
看護師を志して日々勉強に励んでいますが、戦争や平和に携わる人たちの想いに触れて、自分も命を守る仕事に就きたいという気持ちが、一層強くなりました。
■実体験から『学ぶ』、在りし日の真実。
北本市在住の人が語る戦争体験記、北本市ホームページで全文掲載中。(本紙の二次元コード参照)
◇〔Case 01.戦地での体験〕ネグロス島戦記
北本市古市場 永野弘之さん(102歳)
昭和19年7月、福岡県の陸軍飛行部隊に招集され、主に「四式戦闘機(通称…疾風(はやて))」に搭載された当時の最新鋭航空機エンジン「ハ45誉(ほまれ)」(中島飛行機※株式会社SUBARUの前身が開発)の整備担当として、南方方面への出兵を命じられました。
何千人の部隊員とともに門司(もじ)港から出港。潜水艦に襲撃されながらバシー海峡を航行、突如発生したハリケーンによって敵艦の脅威から逃れつつ、台湾を経由してマニラ・セブ島へ一時停泊し、目的地のフィリピン・ネグロス島へ。駐屯地付近に潜む現地兵との緊迫が続く中、米軍による空襲が始まり、日本軍の飛行機は次々と破壊されました。部隊は孤立し、食糧物資の補給は断絶。窮地の中、「飛行機の残骸で手榴弾や山砲を作る」という首脳陣の方針に困惑しながら、密林へ潜伏することに。脚気(かっけ)、大腸炎、赤痢で苦しむ兵士たちが続出し、多くの戦友たちが命を落としていく中、ある日、中隊長から日本の降伏を知らされ、米軍に投降。その後しばらく、レイテ島のタクロバン捕虜収容所で過ごし、昭和21年12月、日本へ帰国。過酷で悲惨な、3年弱の徴兵生活が終わりました。
◇〔Case 02.本土での体験〕静岡大空襲~燃え落ちた母校~
匿名希望
昭和20年6月19日、静岡市での大空襲により家が焼かれ、母と弟、姉とともに避難を余儀なくされました。逃げる途中、周囲で人々が倒れ、町や入学したばかりの学校が焼け崩れる様子を目撃しました。空襲警報に怯え、黒い布で明かりが漏れないよう夜を過ごし、常に食料不足や病院へかかれない状態が続きました。父は戦争に従軍しましたが、台湾の髙雄(たかお)港で艦砲射撃に遭い、消息不明に。その後、家族の元へ帰ってくることはありませんでした。
戦後、日本は憲法9条を制定し、平和が守られていますが、世界ではロシアとウクライナの戦いで多くの人々が亡くなっています。戦争は何一つ良いことはありません。これから大人になる皆さんが、平和で安心して暮らせるように願っています。1人1人が心がけていけば、きっと安心して暮らせる平和を守ることができると思います。