その他 つるがしま100年のあゆみ(2)

■戦火とともに歩み始めた昭和 戦前・戦中のつるがしま 泣いて、祈って、それでも進んだ
今年は、昭和100年であるとともに、戦後80年の年でもあります。昭和100年特別企画の第1弾として、昭和元年から終戦までの鶴ヶ島を振り返ります。
【日本の概況】
大正後期から始まった不景気は、昭和4年の世界恐慌を契機に日本経済を大混乱に陥らせました。社会への不満は、国家主義運動として盛り上がり、急速に戦時色が強まっていきました。昭和6年の満州事変の後、日本は国際連盟を脱退し、国際的に孤立の道を進みます。昭和12年の日中戦争を経て、昭和13年には国家総動員法が制定され、戦争勝利のため、国力すべてが軍需に注がれました。そして、昭和16年、真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まりました。開戦当初は日本が優勢でしたが、次第に戦局は悪化し、昭和20年には広島・長崎へ原爆が投下され、同年日本はポツダム宣言を受け入れ、戦争は終わりを迎えました。

【農業が中心だった鶴ヶ島】
鶴ヶ島では商業は発展せず、農業が生業の主体でした。大きな川のない鶴ヶ島は水稲耕作に向かず、畑作が中心で、お米も田んぼではなく、畑で作る米「陸稲(おかぼ)」が主流でした。また、養蚕も盛んで、桑畑が作られ、繭が多く出荷されていました。農家では出荷できない屑繭(くずまゆ)を紡いで糸を取り、織物を副業として生産する家が多く見られました。日本経済の低迷は農村地域にも大きな影響をおよぼし、特に繭価(まゆか)の暴落は村民の生活を苦しめました。このような状況下でも、昭和4年に脚折雨乞が開催された記録が残っています。また、昭和5年には大規模な開墾が始まりました。下新田を皮切りに、高倉や太田ヶ谷などに耕地整理組合が設けられ各地で進められていきました。

【出征する村民の増加】
昭和15年には新体制運動の一環として近衛首相を総裁とする大政翼賛会が発足し、翌16年には鶴ヶ島村支部も設立されました。昭和17年ごろから徴兵が本格化し、村民の出征が増加。徴兵検査により兵役が分類され、常備兵役・補充兵役などに分かれました。また、現役兵は一定期間後に帰郷が許され、駅や寺で旗を掲げて迎えられました。昭和12年以降の鶴ヶ島村の戦没者は※1 253人に上りました。

【鶴ヶ島にあった飛行場】
昭和13年、高萩飛行場(現・日高市)の建設に際し、多くの学生が勤労奉仕に参加しました。ここは、豊岡(現・入間市)にあった陸軍航空士官学校の分教場で、士官候補生の飛行訓練が行われていました。昭和15年には坂戸・川越・鶴ヶ島にまたがる地域でも分教場の建設が計画され、翌16年には坂戸飛行場が完成しました。これに伴い、周辺住民は移転を余儀なくされ、現在の富士見地区の一部にあたる大塚野新田は消滅し、戸宮は勝呂村(現・坂戸市)に編入されました。同年、鶴ヶ島村内には坂戸航空無線通信所が設置され、坂戸・高萩両飛行場との通信が行われました。

【軍事工場の建設】
国際社会から孤立していた日本では、海外からの航空燃料の輸送が滞り、代替としてアルコール燃料が生産されました。昭和19年、鶴ヶ島においても、行政と農家をつなぐ系統農業会の介在による※2甘藷澱粉(かんしょでんぷん)工場や、海軍の指揮による※3松根油(しょうこんゆ)工場が立て続けに建設されました。日光街道の並木松も切傷が付けられ、松油が採取されました。

【教育】
昭和16年、国民学校令により、小学校は「国民学校」と改称されました。従来の尋常(じんじょう)小学校(6年間)と尋常高等小学校(2・3年間)が統合され、初等科6年間、高等科2年間の8年制となりました。国民学校では、体力増強の訓練や団体行動といった軍事教練が行われました。また、こどもも家庭の農業を手伝うのが一般的であったため、戦前は夏休みがなく、休みは農業が忙しくなる5月の茶摘みの時期3日間と、6月の10日前後のみでした。
戦前の社会教育を担ったのは青年会でした。鶴ヶ島では大正7年に青年団へと再編されました。昭和10年には男子180人、女子95人の団員が在籍しており、これは合わせると当時の村の人口の約一割弱に当たります。
また、義務教育後の勤労青年を対象とした青年学校も組織されました。青年学校では農業増産報国隊の結成に応じ、報国農場が開かれ、サツマイモなどの栽培が行われました。

▽史上初の大陸を超えた兵器⁉
秘匿名称「ふ号兵器」と呼ばれた特殊兵器があります。風船爆弾とも呼ばれ、小川和紙などを使った気球に爆弾を搭載し、無人・無誘導でアメリカ本土を攻撃したものです。約9300発が打ち上げられ、およそ300発が北米に到達したと言われます。被害は少ないですが、史上初の大陸をまたいだ兵器と言えます。坂戸の素麵(そうめん)工場でも製造されており、昭和19年製の試験品が本市に収蔵されています。

▽回収された満福寺の梵鐘(ぼんしょう)
戦争の拡大とともに軍需物資が不足し始めると、昭和16年、政府は資源特別回収に関する通達を発出し、金属の回収が進められました。埼玉県でも呼びかけが行われ、蚊帳(かや)やタンスの吊手金具、火鉢などを提供するよう依頼があり、鉄骨製の火の見櫓(やぐら)まで解体されていきました。また、寺院の梵鐘(釣鐘)の回収も進められ、鶴ヶ島でも昭和18年に、明和元年鋳造(ちゅうぞう)の満福寺(太田ヶ谷)の梵鐘が回収されました。交付金は290円でした。

▼鶴ヶ島市で保有する戦争関連資料の一部(11月開催の企画展にて展示予定)
1 銃剣。
槍のように突き刺すため、小銃の先に取り付けられました。土中から発掘された本資料は全長が40cm以上あり、第二次大戦時には全長25cm程度のものが多かったため、それ以前に使用された可能性があります。
2 海軍士官短剣。
戦闘用ではなく装飾用として用いられました。社会的地位を示すものでもあり、誇りと栄誉の象徴でした。
3 鉄兜。
頭部を保護するための鋼鉄製のヘルメットです。重さは約1kgあり、星章の痕跡が残ることから、陸軍で使用されたものと思われます。
4 背嚢(はいのう)。
現在でいうリュックサックです。帆布製で、食糧・弾薬・衣料・個人装備が収納されました。重い装備では30kgにも達したと言われます。
5 戦時国債。
国が売り出した債権です。これは10円のもので、現在価値に換算するのは難しいですが、約5~10万円と思われます。
6 焼夷弾(しょういだん)。
東京大空襲で投下されたものと同じM69焼夷弾で、38個ずつまとめて航空機から大量に投下されました。鋼鉄製の筒の中にゲル化ガソリンが入れられ、木造家屋を焼き払うために効果的でした。
7 戦闘機のプロペラ。
木製で、高萩飛行場で使用されていたものです。立川の石川島飛行機で製造された九五式練習機(通称「赤とんぼ」)のものと思われます。
8 海軍制服・軍帽。
第一種軍装として用いられた通常勤務冬服で、前合わせはホック留めです。紺色長ジャケットは最も長い年月着用されました。
9 警報機。
背面のハンドルを回すと、大きなサイレンが鳴り響きます。

※1 「昭和60年鶴ヶ島町戦没者追悼式遺族名簿」より
※2 甘藷とはサツマイモのことで、澱粉からアルコールが作られました
※3 松根油とはマツ科植物の油のことで、ここからもアルコールが精製されました

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※詳しくは本誌4,5ページをご覧ください。

問合せ:生涯学習スポーツ課文化財担当