- 発行日 :
- 自治体名 : 千葉県香取市
- 広報紙名 : 広報かとり 令和7年9月号
■千丈(せんじょう)が谷(やつ)~中世城館と陸の松島
黒部川の流域には、台地に囲まれた東西5km・南北6kmほどの広大な田園地帯があり、東側の阿玉台地区から府馬地区にかけての丘陵と谷地に水田が入り組んだ地域は、千丈が谷と呼ばれます。江戸時代の19世紀中ごろに布川(ふかわ)(現在の茨城県北相馬郡利根町)の医師である赤松宗旦(そうたん)が作成した地誌『利根川図誌』では「(五郷内地区の)山に至りて(登って)西北を望めばいと広々たる耕地あり この辺みな一圓に千丈がやつといふ 又千葉氏族の住しあたりなれば千葉が谷とも伝といへり」と紹介されています。現在と同様に田園地帯が広がり、千葉氏が地域を治めた伝承が伝わっていたことが示されています。
千丈が谷を囲む丘陵上の米野井・田部・府馬・五郷内のほか、低地の小見、川上、下小川には中世の城館跡が存在します。これらの城館は千葉氏一族をはじめとする支配者の拠点であり、永禄年間(1558~1570年)には米ノ井城(米野井)などが安房勝浦城主の正木氏の侵攻を受けています。このことから当地が合戦の場であったため「戦場が谷」が「千丈が谷」に転じたとする伝承もあります。
現在は戦乱の時代から久しく、かつての城館があった丘陵を背景に水田の中に寺社や民家の生け垣が点在する風景が広がります。このような風光明媚な景観から水田を水面、丘陵と生け垣を島に見立てて日本三景の一つである松島(宮城県宮城郡松島町など)になぞらえて、千丈が谷は陸の松島と称されています。
問合せ:生涯学習課
【電話】50-1224