文化 先人たちの足跡No.306

■戦後80年に寄せて安食町の配給所(1)
今から6年前、千葉県を襲った大型台風を覚えていますか。令和元年房総半島台風と呼ばれる台風により、戦中・戦後期の史料が見つかりました。
大鷲神社からほど近い、安食交差点を通る県道18号線(成田安食線)沿いに山本太四郎商店があります。その向かい側に、かつて配給所だった建物が現存しています。台風による強風で、屋根裏部分に保管されていた書類の一部が落ち、その建物から戦中・戦後期の配給関係史料が大量に発見されたのです。
栄町において配給関係史料は、酒直地区から「酒配給ニ関スル件」など、配給を通知する史料がいくつか発見されていますが、今回見つかった配給関係史料は段ボール約20箱分にもおよびます。
昭和12年から始まった日中戦争、その決着もつかないまま昭和16年には太平洋戦争に突入しました。その戦時体制下において物資を統制する必要があることから、日常品を中心にさまざまな物資に対して配給制度という措置が取られました。配給は世帯で受けることができ、その世帯の構成員や職業によって割当量が決められました。
昭和15年、砂糖とマッチの切符配給制が実施されると、米などの食糧、その他の食料品、衣類、木炭などの日用品が次々に配給対象となり、自由に売買出来なくなりました。戦争が終結しても物資不足は続き、配給制度は継続していきます。食糧不足は戦後の方が深刻で、遅配や欠配が続きました。統制は、物資が安定して生産されて市場に出回るようになると徐々に解除されていきました。
さて配給関係史料は、どこでも残っていないようで、当時の成田町役場の配給主任(大木用三氏)は、終戦直後、上部機関から「戦争に関連のある文書は全部焼却せよ」との厳命があり、配給や供出の関係書類を含めて処分してしまったとしています。かつての安食配給所から配給関係史料がまとまって発見されたことから、この地域における配給の実態が明らかになると期待されます。
(栄町文化財サポーター橋口佳緒理)

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