文化 戦争を見つめて

令和7年(2025年)は、昭和20年(1945年)の太平洋戦争終結から80年の節目の年です。広報たこでは数回にわたって戦争を振り返ります。

◆戦争体験を聞く
松本照龍(まつもとしょうりゅう)さん

◇いまとは違う日常
私が小学校三年生の時のことですが、学校に登校するときに先生も子どもたちも、必ず奉安殿(ほうあんでん)という社(やしろ)の前で最敬礼をしてから校舎に入っていました。教室には、出征兵士や、戦死した方々の写真が多く貼られ、校庭では軍列行進などの軍事教練を行いました。軍事教練の指導は学校の先生ではなく、当時の軍人が行っていたのです。今では考えられないと思いますが、この時は多古町も戦争一色でした。
空襲警報は多古町でも頻繁に鳴っていました。当時は朝も夜も毎日警報が鳴っていたので、サイレンの音を聞き必死で逃げたことが、私の印象に残っている出来事の一つです。授業中に警報が鳴ると、すぐに授業を中止して山に逃げ込んでいました。登校中に警報が鳴ると、学校が休みになることもありました。学校が休みになってうれしいという気持ちもありましたが、戦争によって休みが増えているという現実を思うと複雑な気持ちになりました。夜は上空から飛行機に見つからないように、裸電球に布をかぶせて外からは見えないように工夫していました。
戦争によって私たちの生活は一変し、今まであった当たり前がいつの間にか変わってしまったのです。

◇がまんの多かった戦時中のくらし
戦時中は食べ物が大変貴重だったため、今のように何でも好きなものを食べられるような時代ではなく、主に芋ご飯を食べていました。それに、水道なんてものはなく、近くの井戸から鶴瓶(つるべ)と呼ばれる桶を使って生活用水をくんで運んでいたんです。今は蛇口をひねるだけで水が出てくるので、便利な世の中になったなと感じています。
また、戦前は多くの油をアメリカからの輸入に頼っていましたが、対立する立場になったことで不足してしまいました。代替燃料をつくるため、放課後や休日には農家の茶畑からお茶の実を頂きました。また、松の幹に筋を入れて樹脂を採取したりする人もいましたね。集めたものを精製し作った油の代替品は、明かりの燃料としてとても貴重なものでした。さらに当時は油だけではなく金属も不足していたため、国は供出と呼ばれる政策を行い、家庭の鍋や釜、お寺の鐘など、多くの金属が回収されていったのです。食べ物だけでなく色々なものが不足していて、常に我慢を必要とする時代でした。

◇戦争体験を通して
戦時中、私は多くの悲惨な出来事を体験し、戦争による影響をこの目で見てきました。見て体験したからこそ、戦争には人一倍強い感情を持っています。今起こっている戦争や紛争の数々を耳にすると、自分に何かできることはないのかと考えています。

◆編集後記
戦時中の生活や学校での活動、頻繁に鳴る空襲警報、今ではありえないことです。しかし、日本が戦争をしていた時代に、確かにそれは日常となっていました。世界では、このような悲惨な日常が実際に起きている地域もあります。今回のお話を聞いて、このようなことは今後起こしてはいけないと、強く感じました。