- 発行日 :
- 自治体名 : 千葉県長南町
- 広報紙名 : 広報ちょうなん 令和7年9月号
■長南開拓記(79)~望陀布と上総細布~
律令制の導入によって整備されたものに、「租庸調(または租調庸)」の制度があります。本来は中国の律令制において採用されていた租税制度ですが、日本の実情に合わせた内容に修正し、大宝律令(七〇一)の中で定めました。もちろん、それ以前の日本に租税の概念がなかったのではなく、『魏志倭人伝』の「租賦を収む」の記述から、すでに三世紀には租税の仕組みが存在しており、それらが、古墳時代にさらに発達していったと思われますが、文字資料がなく、実態はわかっていません。いずれにせよ、律令国家建設という大変革を機として、ようやく体系的に統一された租税制度が実現したと言えます。
さて、この制度はその名のとおり、租・庸・調の三つの税を基本としています。まず「租」は地方の財源となる税で、農民は口分田一段につき稲二束二把を納めますが、天候不良や虫害による不作時には減免措置が取られました。しかし、当時の技術では毎年の安定した収穫が難しく、税収の不安定につながっていたため、国府や郡家が農民に種籾を高利で貸し付けて、収穫後に回収する「公出挙」で得た利益を、税収として扱うようになっていきました。「庸」は正丁(二一~六〇歳の男子)と次丁(六一歳以上の男子)に課され、本来は都に出仕しての労役ですが、実際には米・布などで代納されることが多かったとされます。「調」は正丁・次丁・中男(一七~二〇歳の男子)に課された税で、絹や布(麻・苧など)の織物で納め、これらは官人の給与に充てられました。特に上総国望陀郡(袖ケ浦市・木更津市・君津市東部)産の麻布は「望陀布」として高級品の扱いを受けており、望陀郡以外の上総国産の麻布も、望陀布に次ぐ品質の「上総細布」として評価されていました。また、正丁には調に付随して工芸品や紙などを納める「調副物」もありました。そのほか、国司が徴発し、定められた日数内で労役を課される「雑徭」、村人の代表として庸・調を都に運ぶ「運脚」、各里(郷)から選出された二名が都で労役に就く「仕丁」、さらには衛士や防人のような兵役など、民の負担は重いものであったようです。
根畑遺跡(芝原)の奈良時代住居跡から出土した紡錘車。穴に通した棒に繊維を引っかけ、回転させて糸を紡ぐ。こうした糸で織られた布が調として都に納められると、上総細布として珍重された。
※写真は本紙をご覧ください
(町資料館 風間俊人)