文化 ちょうなん歴史夜話

■長南開拓記(80)~或る防人の歌~
養老律令の軍防令には、正丁(二一~六〇歳の男子)三人のうち一人を兵に徴発すると定められました。徴発された者は各地の軍団に出仕し、班ごとに十日交代で勤務にあたりました。近現代の軍隊では軍から支給される武器や食糧も、古代の軍団では兵士が自分で調達しなければなりませんでしたが、自分が居る国内の軍団に詰めるので、平時であれば地元から離れることはありませんでした。ただし、都で宮中を警護する衛士や、西国の辺境警備に就く防人は諸国の軍団兵の中から選抜されるため、そうなると故郷を離れて長期の任務を強いられました。
防人は、六六三年に朝鮮半島の友好国・百済を支援し、朝鮮半島の唐・新羅連合軍と戦って惨敗した白村江の戦いの後に、唐や新羅の日本襲来に備えた防衛策として創設された制度です。諸国から集められた兵たちは、大宰府の指揮下で筑紫・壱岐・対馬を警備しましたが、遠国での勤務にも拘らず、食料や武器を自分で調達しなければならず、しかも、任期中でも税が免除されないなど、とても過酷なものでした。奈良時代末期に成立した『万葉集』には、東国十カ国の防人が詠んだ歌が所収されており、上総からは十二首が撰ばれていますが、その中にこんな歌があります。「筑紫辺に舳向かる舟のいつしかも仕へ奉りて国に舳向か(筑紫へ舳先を向けて進んでいる舟は、いつになったら任務を果たして故郷に舳先を向けるのだろうか)」東国から徴発された防人たちは陸路で難波津(大阪府)に向かい、そこから船で北九州に運ばれました。「これから長く家族と別れ、故郷から遠く離れた辺境での暮らしはどんなものだろうか。任期は三年というが、実際には延長されることがよくあるという。その間を無事に過ごせるのか。敵の襲来だってあるかもしれない。自分は生きて故郷に帰れるのだろうか。」この歌の詠み人は、船中でそんな思いに沈んでいたのでしょうか。短い歌ですが、込められた思いは極めて重いものであったのでしょう。その詠み人は長柄郡の若朝續部羊という人物です。当時の長柄郡は現在の長南町域の一部も含んでいたとされています。

市原市郡本の阿須波神社。
境内の万葉歌碑「庭中の阿須波の神に小柴さし吾は斎はむ帰り来までに(庭の阿須波の神の祠に小枝をさして私は祈ろう、無事に帰って来るまで)」は、防人として出征した者の家族が、無事の帰還を願って詠んだものと思われる。
※写真は本紙をご覧ください

(町資料館 風間俊人)