文化 歴史資料館 連載三九五

■松平定信と鋸南
幕府老中(ろうじゅう)として寛政(かんせい)の改革を推(お)し進めた松平定信(まつだいらさだのぶ)は、もとは徳川御三卿(ごさんきょう)の田安(たやす)家に生まれました。幼名は賢丸(まさまる)と言い、田安家跡取りや将軍にも成り得る可能性がありながら、奥州白河藩(おうしゅうしらかわはん)松平家に養子に出されてしまいます。しかし藩主として白河藩を立て直し、その評価により老中に就任したのです。それまでの田沼政治を一新する質素倹約(しっそけんやく)の改革を断行しました。
定信は日本の海防(かいぼう)を重視しました。異国船に備えて江戸湾の防備を重要課題とした彼は、その足で沿岸巡視(えんがんじゅんし)も行っています。
文化七年(一八一〇)、幕府は白河藩に上総・安房の常駐沿岸防備を命じ、内房に面した一〇三ケ村三万三千石を代替領地として与えました。定信はこの時には老中は退いていましたが、白河藩主として、自らの主張を実践する立場となったのです。鋸南では、元名、本郷、吉浜、大帷子、小保田、横根、市井原、奥山、大崩村が、白河藩領となりました。文政五年(一八二二)まで、この九つの村は白河藩主松平定信の領地だったのです。
洲崎(すのさき)には台場、波佐間(はざま)(館山市)には陣屋を築いた定信は、その巡視のため房総沿岸を巡検に訪れたのが文化八年(一八一一)。この時の紀行文を「狗日記(いぬにっき)」と題して残しました。
十一月三日、定信は保田を通ります。「狗日記」には「保田といふあたりより、水仙いと多く咲きたり」と記し、水仙の多さに感動しています。そして岩井から木の根峠の山道を越えて那古へ向かいました。木の根峠では、輿こしの通れないところは徒歩で行くぞと気負って歩きましたが、やはり年のせいか、きつくなりまた輿に乗ってしまったと、記しています。そして那古観(なごかんの)音を参詣し、洲崎へ向かいました。
那古観音の扁額(へんがく)、洲崎神社の扁額の字は、松平定信の筆によるものです。(つづく)