- 発行日 :
- 自治体名 : 千葉県鋸南町
- 広報紙名 : 町報きょなん 令和7年7月号
■太田南畝
江戸時代後期、太田南畝(おおたなんぼ)という文化人がいました。下級の幕臣ですが、多彩な才能と文才と独特のユーモアを兼ね備え、特に狂歌(きょうか)では四方赤良(よものあから)、蜀山人(しょくさんじん)などの狂歌名を持ち、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)とも交流を重ね、天明(てんめい)期に江戸で狂歌の一大ブームを巻き起こす、その火付け役でもありました。
その太田南畝が、勝山の捕鯨を狂歌に詠(よ)んでいます。
「いさなとる安房の浜辺は魚扁(うおへん)に京といふ字の都なるらん」
いさなとは勇ましい魚でクジラのことです。魚扁に京と書いて、鯨(くじら)という漢字ができます。そこにかけて、勝山が鯨で、京の都のように栄えていると詠んだものです。その狂歌碑は大黒山の醍醐新兵衛の墓の隣りに建てられています。
南畝が醍醐家に贈った歌で、南畝が実際に勝山に来たかどうかは定かではありませんが、勝山の捕鯨が、それだけ江戸にも知られていたということでしょう。
鋸山を詠んだ南畝の狂歌もあります。
「だれもかも鋸山はめずらしと来るたびごとに目をひきたてみん」
やはり鋸山も、江戸に知られた名所地だったことがうかがえます。
田沼時代は、こうした文芸や出版文化が大きく花開いた時代でしたが、次の松平定信(まつだいらさだのぶ)の寛政(かんせい)の改革では、きびしく統制され、南畝もそれらに力を注ぐことが難しくなりました。
文政六年(一八二三)、南畝は登城の道での転倒が元で死去したそうです。七十五歳でした。辞世(じせい)の狂歌が残されています。
「今までは人のことだと思ふたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」。