文化 【特集】「すぎなみビト」音楽家 谷川 賢作(1)

■プロフィール
谷川賢作 (たにかわ・けんさく)昭和35年杉並区生まれ。
ジャズピアノを佐藤允彦氏に師事。80年代半ばより作・編曲の仕事を始め、数々の映画およびテレビ作品などの音楽を手掛ける。日本アカデミー賞優秀音楽賞を複数回受賞。演奏家としては、現代詩を歌うバンド「DiVa」、ハーモニカ奏者・続木力とのユニット「パリャーソ」、父である詩人の谷川俊太郎と朗読と音楽のコンサートを全国各地で開催。現在も各地で多様な演奏活動を展開中。阿佐谷ジャズストリートには令和3年から4人組ユニット「もこもこ」で出演している。


■小学1年生で始めたピアノ。音楽家の道へ進むまで
─谷川さんの子ども時代のお話、音楽活動の原点を聞かせてください。
蝶よ花よと育てられた一人っ子の父と、下町、三河島の6人兄弟の末っ子である母という、いわば全く正反対の環境で生きてきた両親のもとに、長男として生まれました。実家は阿佐谷で、杉並第二小学校に通いました。子どもの頃はどちらかというと引っ込み思案で、寡黙な少年だったように思います。
音楽を始めたのは小学1年生。兄弟の多い家庭に育ち、習い事をしたことがなかった母が、おそらく息子に夢を託す気持ちもあったのでしょう。「向いているからやってみなさいよ」と僕にピアノを勧めてくれたのが、音楽を始めたきっかけです。

─ピアノを習い始めて、どのように感じましたか?
メカニックな基礎練習がすごく嫌でした。手の甲に5円玉を置いて落ちないように弾くとかね。それでも音楽を奏でること自体は好きで、アニメソングなんかを耳コピしながら自由に弾く時間はとても楽しかったです。でもその後、母への反発から「クラシックはもうやりたくない」とピアノをやめて、中学生時代は完全にブランク。高校生になって友達とロックバンドを組むとき、「ピアノをやっていたから谷川はキーボード!」と言われてまた弾くようになりました。ディープ・パープルの曲をたくさんコピーしていましたね。

─ジャズピアニストの道を志した背景にはどんな思いがあったのでしょうか?
高校を卒業した後、大学に行かず何もしないでいた時期があって。親はそんな息子を受け止めてうるさいことを言わなかったけれど、僕は僕なりに「このままじゃいかんな」と感じていて、いろいろ考える中でもう少し音楽を勉強したいという考えに行き着きました。音楽を学べる大学の入試要項も取り寄せてみたけれど、「バッハのここを弾かなければならない」とか、受験項目がなんとなくしっくりこない。それならばと、ジャズピアノを学べる学校の扉を叩き、ジャズピアニストである佐藤允彦さんに師事することになりました。

─クラシックやロックを経て、本格的に学んだのがジャズだったのですね。
ジャズの世界に飛び込んで、最初こそ「暗くて妙な音楽だな」と思いましたが、理論を理解し謎が解けていくと面白くて、どんどんハマっていきましたね。カラオケがまだなかった当時はクラブでの歌伴奏の需要が高く、赤坂・銀座のジャズクラブでたくさん弾きました。その経験でずいぶん鍛えられたと思います。同時に、お店で出会ういろいろな人に声をかけてもらい、ちょっとしたアレンジからラジオCMの作曲など音楽の仕事をするようにもなりました。そして初めて本格的に取り組んだ大きな仕事が、市川崑監督の映画「鹿鳴館」の音楽。25歳のときです。共同クレジットで作曲家の山本純之介さんと音楽を担当し、勉強させてもらった思い出深い作品です。その後、市川監督の多くの作品で音楽を担当するようになりました。