- 発行日 :
- 自治体名 : 東京都八王子市
- 広報紙名 : 広報はちおうじ 令和7年7月15日号
終戦間近の昭和20年8月2日未明、まちに壊滅的な被害をもたらした「八王子空襲」がありました。工場で働く人や疎開者が多く、八王子駅が鉄道交通の要だったことから標的になったとされる当時の八王子。空襲はおよそ2時間にわたり、約67万発の焼夷弾(しょういだん)(注)が投下され、死者は約450名、負傷者は約2,000名にのぼり、市街地の約8割が焼失しました。
今年で戦後80年。実際に体験された方も少なくなり、戦争の記憶も薄れつつあります。戦争という悲劇を二度と繰り返さないためにも、「語り部」の方の証言や平和を学ぶ高校生の声などを通して、改めて平和について考えてみませんか。
(注)日本の木造家屋を効果的に焼き払うため、ガソリンなどを詰め込んだ米軍の爆弾
◆〔体験者が語る、戦争の記憶〕 「戦争は嫌だ」と言い続ける、その先に平和がある
◇火の海を駆け抜けて
空襲の情報が流れていた8月1日の夕方、地域の防火要員だった父を自宅に残し、私は母と弟2人とともに、避難のため石川町の知人宅へ向かっていました。しかし、その道中、日本軍による「空襲はない」との情報を聞き、明神町の自宅へと引き返しました。
家族で寝床についた頃、突然、米軍爆撃機の轟音(ごうおん)が。「来たぞ、防空壕(ぼうくうごう)に入れ!」と父が叫び、私は浴衣に下駄姿のまま急いで逃げ込みました。しばらくすると、空襲によって発生した火災の熱で、防空壕の中は焼けつくような熱さに。このままでは焼け死んでしまう――そんなとき、入り口を塞いでいた焼夷弾を父が蹴り飛ばしてくれたおかげで、私たちは命からがら脱出しました。
まちが炎に包まれるなか、浅川に向かって家族で逃げていましたが、途中で母と1歳の弟と離れ離れに。父に「中央線の鉄橋に向かって逃げろ」と言われた私は、3歳の弟を背負って火の海の中を必死に走りました。父とも別れ、何とか浅川沿いの桑畑に逃げ込んだものの、幼い弟と2人きり。とても心細く、不安な夜を過ごしました。
夜が明け、大和田橋の方へ歩いていると、私の名前を呼ぶ父の声が。その声を聞き、再会できた喜びで涙が止まらなかったことを今でも鮮明に覚えています。
◇戦争は二度と起きてほしくない
幸いにも家族全員無事でしたが、空襲で家は全焼。残ったのは、貴重品などを入れ、床下に埋めていた茶甕(ちゃがめ)だけでした。
戦争は大事な人や思い出を奪う愚かなものです。誰もが「二度と起きてほしくない」と心から願っているはずなのに、戦後80年を迎える今でも世界中で争いが絶えません。戦争のない平和な未来を築くためには、一人ひとりが「戦争は嫌だ」と言い続け、そうした声を上げられる社会を守ることが大切だと、私は思います。戦争を体験した者の使命として、平和の尊さをこれからも伝えていきたいです。
◇村野 圭市(むらの けいいち)さん
明神町在住の93歳。13歳のときに八王子空襲を体験。現在は、自身の体験を通して平和の尊さを伝える「語り部」として活動している。
・戦争体験を語る動画はこちらから(本紙二次元コードよりご覧ください。)