文化 茅ヶ崎ゆかりの人物たち 第三十四回 伊藤里之助(いとうさとのすけ)

伊藤里之助は、1864年に茅ヶ崎村最大の地主で代々名主も務めた旧家に生まれました。1894年から茅ヶ崎村長となり、茅ヶ崎町初代町長も含めた1919年までの25年間を首長として在任し、明治・大正期における茅ヶ崎の地域開発に大きな役割を果たしました。

■茅ケ崎駅と別荘誘致
1887年に湘南地方で東海道線が開通しました。当時の茅ヶ崎地域には停車場がなく、人々は藤沢か平塚に出向かなければ鉄道を利用することができませんでした。伊藤は、当時の鶴嶺村長であった山宮藤吉(後に衆議院議員となる)とともに停車場の設置願書を起草して、伊藤博文に陳情したとも言われています。こうして1898年に茅ヶ崎停車場、現在の茅ケ崎駅が開設されました。
また伊藤は、鉄道開通後に別荘地が増えだした鎌倉などを見て、茅ヶ崎も同じように別荘地として最適であると考え、別荘誘致に積極的に乗り出しました。誘致においては、適地の土地紹介や購入・建築の世話を行い、持主不在中の別荘を自ら管理するなど、細かいところまで面倒をみました。地域の土地を売却することだけを目的とせず、別荘住民と地域との交流を通じて、経済開発や文化振興を図ろうとしました。

■村から町へ
日露戦争後、国家・地方ともに財政事情が厳しくなり、政府は1906年から町村合併を積極的に進める政策を打ち出しました。いくつかの案が示される中で、1908年に県や郡の指導の下で茅ヶ崎村・鶴嶺村・松林村が合併し、10月に茅ヶ崎町が誕生しました。新町名は駅名と同じがよいとして決められたそうです。初代町長となった伊藤は、合併が強行されたことによって生じていた旧3村の確執の解消に努めました。
伊藤の行政手腕により確執は次第に解消され、1914年に茅ヶ崎海岸が『横浜貿易新報』の避暑地十二勝選に当選し、海水浴場地としての発展が軌道に乗ったことも契機となり、町内の融和が取り戻されました。

■地域の事業活動
初代茅ヶ崎町長となった伊藤は、地域の事業活動にも積極的に関わりました。1911年には茅ヶ崎電灯株式会社を設立し、同社により町の電灯は大きく普及しました。その他にも、芝居の興行、演奏会や映画上映を行なった茅ヶ崎座の設立にも発起人として名を連ねています。また、1917年に誕生した大規模製糸工場茅ヶ崎純水館に関しても、工場敷地取得斡旋の役割を果たしました。さらに、同年、伊藤らによって、相模川流域地帯を東海道線・中央線と結びつけることや、相模川の砂利を運搬することを目的として、茅ケ崎駅と横浜鉄道橋本駅を結ぶ鉄道が計画され、相模鉄道株式会社が創立されました。鉄道開業は1918年を予定していましたが、土地買収が大幅に遅れたことや、資材の異常な値上がりなどにより、工事は大幅に遅れ、伊藤は開業前に経営から退陣することとなってしまいました。難航の末、1921年にようやく茅ヶ崎・寒川間が開業されました。現在のJR相模線の一部です。

晩年の伊藤は病気がちとなり、関東大震災の翌年1924年3月2日に亡くなりました。

問合せ:文化推進課市史編さん担当
【電話】81-7148