- 発行日 :
- 自治体名 : 山梨県北杜市
- 広報紙名 : 広報ほくと 令和7年8月号
■小和田(こわだ)遺跡出土の緡銭(さしぜに)
昭和五九年に行われた長坂町大八田の小和田遺跡の発掘調査で、古銭約六千枚が三ヶ所に分かれて出土しました。特に第三地点からは藁縄(わらなわ)でまとめられた二八〇二枚の銭が、古瀬戸の壺に入れられた状態で見つかりました(写真上)。他の二ヵ所の銭も縄でまとめられていたようですが、土に触れていたためほとんどなくなっていました。
銭の真ん中の穴に一本の縄を通し、九七枚で結び目を作ったもの五つ(四八五枚)をひとつの単位とし、それを二本結び合わせたものが三束入れられていました(写真下)。
細い藁縄を緡(さし)といい、緡で一〇〇文単位にまとめられた銭を緡銭といいます。銭は一枚一文で数えられ、一〇文で一疋(ひき)、一〇〇疋で一貫(かん)と数えましたので、壺には約三貫文が入れられていたことになります。
第三地点出土の緡銭は四七種類もの銭で構成されており、最新の銭は明(みん)で発行された永樂通寶(えいらくつうほう)(最初の生産は一四〇八年)でした。銭種と枚数の比率、容器である古瀬戸の壺の年代から一五世紀前半に埋められたものと考えられており、このような埋納銭(まいのうせん)の例としては古いといえます。
当時は九七枚や九六枚など、一〇〇枚に満たない数で一〇〇文に換算する省陌法(しょうひゃくほう)または短陌(たんぱく)といわれる習慣が一般的で、貨幣経済が発達した中国で、銭の不足から始まった習慣とされています。当初は九七枚で一〇〇文とするのが一般的でしたが、徐々に九六枚に変わっていきます。これは割り切れる数が多い(2、3、4、6、8)ことから、九六枚の方が使いやすかったとの説があります。
当時、銭一貫とはどのくらいの価値があったのでしょう。古文書からは米で換算すると七万五千円、清酒で一五万円、大工の日当で三〇万円と試算されています。時代や地域、売買する品目により変動しますが、おおむね一〇~二〇万円と考えられています。
なぜ、大量の銭を埋めたままにしたのか、戦乱などの混乱から守るため、後に使うための備蓄、地鎮(じちん)などの名目で神に捧(ささ)げたものなどの説がありますが、その理由は伝わっていません。
一五世紀前半といえば、北杜市域を本拠とした逸見氏と武田氏の抗争が激化した時期に重なります。不安定な社会情勢が動機の一因になった可能性が考えられます。
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