- 発行日 :
- 自治体名 : 山梨県甲斐市
- 広報紙名 : 広報甲斐 令和7年9月号
大弐の柳荘塾では、幕府の旗本やさまざまな藩の武士など多くの門弟が学びました。その中に織田信長の子孫が治める上州(群馬県)・小幡藩の家老、吉田玄蕃もいました。
吉田は藩主の信頼が厚く、大弐の協力も得て政治改革や財政再建に取り組んでいました。しかし藩内には反対派の政敵がいて、家老・吉田が大弐とともに「謀反を企んでいる」と幕府に密告したのです。この密告によって大弐は突然、逮捕されます。その容疑は「幕府への謀反」という大罪でした。
大弐は過去に「宝暦事件」と呼ばれる尊王論者の弾圧事件に関わった思想家・竹内式部と親しくしていました。これは江戸時代最初の思想弾圧事件です。この宝暦事件で罪に問われた竹内式部が自分の思想を文章にしていなかったことから、大弐は自分はきちんと文章にして残すという決意をしました。それが『柳子新論』執筆の動機になりました。
逮捕された大弐とその周辺の人物たちも徹底的に取り調べを受けました。甲府で大弐が教えを受けた儒学者・加賀美光章父子は江戸に呼び出されるなど、大弐の関係者が大勢逮捕されました。
取り調べの結果、謀反は事実無根であることが判明し、加賀美父子も無罪放免となりました。しかし大弐の『柳子新論』は幕府批判の書とされ、「後の謀反につながる」として、死罪が言い渡されました。
判決が出る直前、空には中秋の名月が輝いていました。この名月の夜、獄中で大弐は歌を詠みました。
「曇るとも何かうらみん月こよひ はれを待つべき身にしあらねば」
この歌には「今夜の中秋の名月が曇っていても恨むことはない、やがて雲も去って晴れるのを待つ自分であるのだから」という意味が込められています。潔白を待つ自分自身に重ね合わせた和歌でしたが、これが大弐の辞世の句になります。
明和4年(1767年)8月、大弐は享年42歳でその短い生涯を閉じました。この出来事は、後に「明和事件」として日本史の教科書にも載るほどの大事件となりました。
しかし、山県大弐の志はここで途絶えませんでした。『柳子新論』は、密かに書き継がれ、幕末になって長州(山口県)萩藩の軍学者・吉田松陰の目に止まります。松陰は『柳子新論』を読んだ瞬間、それまでの単なる「尊王論」から天皇親政の「王政復古」と徳川幕府を倒す「倒幕論」に自らの思想を変えました。ここから「倒幕」「明治維新」が始まることになります。そして大弐没後100年の節目に「大政奉還」へとつながっていくのです。
さらに150年後の現代、時を超えて「大弐と松陰の思想の一致」を知った山口県萩市の人々や松陰神社の関係者と、大弐を祀る山縣神社との間に交流が生まれました。令和6年に山縣神社関係者が松陰神社を訪れ、今年9月23日の「大弐学問祭」には、松陰神社関係者が山縣神社を訪れることになっています。このように山県大弐は「明治維新を創った人」として、その偉大さが再認識されているのです。
■明治維新につながる思想と時代に翻弄された大弐の生涯を描いた小説『明治維新を創った男・山縣大貳』(PHP研究所)は、市立図書館カウンター、または電子書籍で購入できます。
江宮隆之 著