- 発行日 :
- 自治体名 : 山梨県山中湖村
- 広報紙名 : 広報やまなかこ 令和7年11月号
■古代の道路「甲斐路」(1)
皆さんは、「甲斐路」というものをご存じでしょうか。古代の道のことです。甲斐路は、甲斐国と都を結ぶしっかりした道です。昔の道と言うと、けもの道程度かと思われがちですが、朝廷は全国にしっかりした道路を張り巡らしました。この道路は、山陽道、東海道、東山道などと呼ばれ、幅も広く比較的真っ直ぐな道でした。しかも、しっかりと舗装されていました。これらの道は、飛鳥時代の天武天皇の時代(673年―686年)には、都から全国に伸びていました。道幅は、大路24m、中路12m、小路6mの3種類がありました。平安時代まで都から地方に伸びる道の上を天皇の命令や各国の出来事を記した文書が行き交い、各国から税を運ぶ人々が通りました。いわば古代日本の血管の役割をしていました。
甲斐路は、東海道から分岐していたので東海道甲斐路と呼ばれています。甲斐路は、御殿場市や小山町で古代東海道から分岐し、甲斐国の国衙(こくが)(県庁に当たる)に通じていました。国衙の位置は、旧八代町、旧春日居町など言われています。甲斐路は、小路なので6m幅です。なお、東海道は、道幅12mです。昔から甲斐路がどこを通っていたのか議論になっていました。御坂峠を通っていたのは間違いなのです。こんな歌があります。
「甲斐人(かひうど)の 嫁にはならじ 事辛(つら)し 甲斐の御坂を 夜や越ゆらむ」(承徳本古謡集)
御坂峠を通って御殿場市や小山町に抜けるとなると甲斐路は富士河口湖町を通ったことは間違いありません。
平成25年に富士河口湖町河口から甲斐路そのものと思われる道路跡が発掘されました。場所は、富士吉田市から新倉トンネルを抜けた先です。となると甲斐路が山中湖村のどこを通ったのか気になる所です。次回から具体的に甲斐路のルートを考察していきたいと思います。
