- 発行日 :
- 自治体名 : 長野県東御市
- 広報紙名 : 市報とうみ 2025年9月号
■文政七年、その事件は起きた
人権同和教育指導委員 坂井 美嗣(さかい よしつぐ)
―古文書の解読から―
とある村の店先でこの事件は起きました。手品の見世物の前に、刀を差した二人の浪人が見物料を払い見物するといって座りました。一通り芸が終わったところで、村人がその浪人の前に座ると、「百姓の分際で俺の前に座るとは無礼だ。切ってしまえ。」と刀を抜きました。
「浪人が暴れている。村人が危ない!」と警備役の三人がこれを鎮めようと、踏み込みました。浪人はこの三人に切りかかりました。警備役の武器は十手や六尺棒です。三人は刀傷を受けながらも、ひるむことなく立ち向かいました。三人に押されて浪人たちは逃げ出しましたが、三人は追って追って追い続け、ようやく浪人を捕まえることができました。その後浪人はどのような処分を受けたかはわかりませんが、けがをした三人のもとには、お頭と村役人の嘆願により、その日の夜には、藩から藩医が二名派遣され治療に当たりました。
その時の疵(きず)所書(診断書)が残っています。原文のまま引用します。
三之助 肋(あばら)の後ろより背骨の際まで深手 六寸二分 十針(一寸は3cmほど)
源七 鬢(びん)先浅疵 一寸七分 左眉の上浅疵 一寸 目尻り頬(ほお)へかけ 一寸七分 二針
円蔵 右手大指外横疵浅手 左腕疵 二寸四分 大指の股骨際まで切り込み疵 一寸六分 二針
「命のほど計りがたく治療中たびたび気絶いたし候」とあり、重傷であったことがわかります。
こんな傷を受けながらも、「私たちが手傷を負ったことは、少しも苦労とは思いません。」また、「村人を災難から救うことが、私たちの仕事だと思っております。」と言っています。
この警備役の人々は、厳しく差別された人たちでした。現在でいう、警察や看守などの公共的な役割を担っていたにも関わらず、厳しく差別されていたのです。
古文書を読み解くことで様々なことがわかってきました。このような歴史的事実に触れ、私の部落差別に対するイメージが大きく変わりました。社会の一員として重要な仕事の一端を担い、これを誇りとして、村のために働いていたことが言動からも伺え、しかもその働きぶりは、村の人たちから信頼を得ていた、という事実です。