- 発行日 :
- 自治体名 : 長野県小海町
- 広報紙名 : 小海町公民館報 第561号
秩父事件が起こってから今年で141年が経過します。この事件は史料が多いこともあって現在でも新しい発見があり調べていて興味が尽きない事件です。今回、裁判記録を読み解く中で判明した情報を3回に分けてお知らせしたいと思います。
■(1)小海町東馬流本陣の槍
秩父事件で国民軍の本陣となった井出家には1本の槍が残されております。
この槍は群馬県から事件に参加した、新井寅吉という人が逃げる時、本陣の床の間に残していった物です。この槍については次の定説があります。「十石峠において、前川彦六巡査を困民軍の小林酉造と新井貞吉が切った時、新井寅吉がとどめを刺した槍である。」といわれ令和6年5月の現地研修会の時もその様な説明がされて居りました。又、作家・戸井昌造著『秩父事件を歩く 第三部 秩父困民軍の戦いと最期』のP.299の中では「貞吉の親父の寅吉がかけつけて槍をつき通した。」と書かれております。しかし裁判記録の中では次の様になっております。要点のみ原文のまま書きます。
「十石峠において、前川巡査を小林酉造と新井貞吉が切りたる節、槍にてとどめを刺したと一旦自白したる事あるも無実の陳述なりと反供し、又検死書によるも首筋に刀傷三ヶ所あるまでにて、とどめを刺したと認めるべき点は無く、前川のとどめについての所為(振る舞い)はその実、無きものと認定する」となっています。
(以上『史料集成』P.163 新井寅吉の判決文の中より)よって巡査の体には槍の刺し傷はなかったと認定された訳です。つまり寅吉はとどめを刺さなかったので6年の刑期ですんでいる訳です。
十石峠の殺人では、最初に切り付けた小林酉造が明治17年11月23日の訊問で「新井寅吉がとどめを刺しました。」と証言します。これを受けて、同じ高崎署に居た寅吉も同じ日に訊問を受けます。おそらく厳しく責められたのでしょう。「おそれ入りました。私も手伝ってとどめを刺しました」と自白します。これで万事休すと思いきや、明治時代の警察の捜査もでたらめではなかったようで、寅吉がとどめを刺さなかった事が証明された訳です。
尚、槍について寅吉は11月23日、第5回の訊問の中で「信州の泊りし宿の床に立掛置、明け方戦争が始まると逃げ去りし故、槍などそのまま捨去りたり。」とのべています。この槍はおそらく当時の当主、井出直太郎氏が天井裏に上げておき、昭和になって、板屋根から瓦屋根に替える時発見され、今も井出家にある訳です。現当主もその時の事は良く覚えているそうです。
文化財調査委員 大畑 新井松夫