文化 写真でたどる ふるさと再発見 No.70

〈甲良4500年の歴史をたどる縄文編(3)〉

□謎に満ちた小川原遺跡
出土した配石遺構や祭祀具である土偶や石棒の出土状況から、小川原遺跡は中央の列状に並んだ石を境に右側を男性空間、左側を女性空間と見ることができるのではないかと発掘された中村健二氏は分析されています。
上図に見える無数の小さな穴は建物の柱跡と貯蔵穴です。
建物は39棟以上も確認されています。当時、西日本の縄文集落は2~3棟の小規模なものが一般的な中で、小川原遺跡は破格の大集落だったのです。
また、建物の様式も、スタンダードな「竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)」ではなく、穴を掘らない「平地式住居(へいちしきじゅうきょ)」でした。東日本の配石遺構のある遺跡は全て平地式住居になっているそうです。
食糧を保管する「貯蔵穴(ちょぞうけつ)」からはドングリの実がたくさん出てきました。当時西日本では、アク抜きの手間が少ない「イチイガシ」の実が主に食べられていたのですが、小川原の縄文人は東日本の縄文人が食べていた「コナラ」のドングリを主に食べていたのです。貯蔵穴の形も、関東の台地のような場所にあるものとよく似た円筒形をしていました。

□東日本の縄文人が小川原に来た?
出土したハート形土偶は東日本の土偶とそっくりです。石棒も東日本産の石が使われています。生活様式は東日本の台地での生活そのものです。これらの事実を重ね合わせると、「台地と同じ生活環境を求めて、水の無い扇状地の小川原に遙々東日本からやってきた縄文人が生活していたと考えてもいいのではないか」と中村健二氏は推論されています。
大規模で近隣と全く違う特徴を持つ小川原遺跡は、縄文後期の一時期に存在したものの、晩期には忽然(こつぜん)と無くなってしまいます。それはなぜなのか、ここに住んだ人々はどこへ行ったのか、小川原遺跡は知れば知るほど魅力的で興味は尽きません。

参考資料:
中村健二氏講演記録(縄文時代の小川原遺跡)
ほ場整備関係遺跡発掘調査報告書XXIII-5小川原遺跡3

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