文化 写真でたどる ふるさと再発見No.71

《甲良4500年の歴史をたどる縄文~弥生時代》

◇ドングリからコメへ
一万年もの長い間続いた狩猟・採集の暮らしは、大陸から伝わってきた「コメ」の広がりとともに、稲作中心の暮らしへと生活のあり方を大きく変えていきます。
滋賀県でも米作りが行われるようになったのは、今から約2500年前のことでした。稲の栽培には豊富な水が必要です。
金属製の掘削道具など無かった時代ですから、最も労力が少なくて田ができる琵琶湖畔から栽培が始まりました。守山市の服部遺跡や大中の湖南遺跡からは弥生時代前・中期の水田跡や木製農具が見つかっています。荒神山近くの稲里遺跡からは300点を超える炭化米が出土しています。

[守山服部遺跡の水田跡・大中の湖南遺跡出土木製農具・稲里遺跡出土の炭化米]
※詳しくは本紙をご覧ください。

◇甲良にも米が伝わってきたが…
弥生時代初期の遺跡である北落古墳群遺跡や尼子遺跡から、弥生土器の壺や破片が出土しています。調べた結果、「遠賀川式(おんがかわしき)」という種類の土器であることが分かりました。この形式の土器が出れば米作りの文化が伝わっていたという証拠になる土器です。つまり、甲良にも米作りの文化が伝わってきていたということです。
しかし不思議なことに、米作りの始まる弥生時代前期まで点々と存在した甲良町内の遺跡は、弥生時代中期以降は全く無くなってしまいます。米作りという新しい生活様式が伝わり、一層栄えるはずの甲良から、なぜか人が消えてしまうのです。いったいどうしたのでしょうか。甲良に住んでいた縄文人の子孫はどこへ行ってしまったのでしょうか?

[北落古墳群出土壺]
[尼子遺跡出土土器片]
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◇扇状地では田んぼが作れない
採集・狩猟の暮らしをしていた甲良の縄文人は、湖岸の稲作のムラと交流する中で、コメを食べる生活を受け入れるようになっていきます。しかし、犬上川によってできた扇状地の真ん中にある甲良の地では、水はあっというまに地下に浸透してしまい、田んぼを作ることなど不可能です。人々は、稲作のできる土地を求めて湖岸の平野の方へ移り住んでいった、それが弥生時代には甲良から人が消えてしまう理由だと考えられています。

[扇状地模型図]
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参考資料:
県教委・県協会『稲里遺跡』『北落古墳群I』『在士北・尼子遺跡』彦根市史
安土城考古博物館展示資料 琵琶湖ハンドブック四訂版 埋もれた文化財の話42(滋賀県埋蔵文化財センター)

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