- 発行日 :
- 自治体名 : 滋賀県甲良町
- 広報紙名 : 広報こうら 2025年10月号
■甲良4500年の歴史をたどる古墳時代
◇眠りから目覚めた甲良
縄文時代には大集落もあった犬上川扇状地は、米作りには不適なため、弥生時代には住む人がいなくなってしまいました。
しかし、無人の荒野と化していた甲良の地も6世紀に入ると激変します。
犬上川扇状地の始まりの部分に当たる楢崎・金屋・正楽寺・池寺、その下の北落一帯に、6世紀半ばから古墳(お墓)が爆発的な勢いで作られるようになるのです。その数、百基以上と推定されています。
群集する古墳は、数基の指導者層の墓とみられる従来の日本列島型古墳とその周辺に散在する朝鮮半島の系譜をひく石室を持った少し小さな古墳の2種類の形式がありました。
これらの古墳に葬られたのは、いったいどんな人たちだったのでしょうか?
◇4~6世紀の日本列島
米作りが始まると、人々は定住し、「ムラ」ができます。そのムラが集まって小さな「クニ」がたくさんできます。
3世紀には、争い合うクニを一つにまとめる「卑弥呼(ひみこ)」という女王が登場します。
更に4世紀に入ると、天皇を中心とする大和王権の力が全国に及んでいきます。その権威の象徴として各地に前方後円墳が作られたため、4~6世紀を「古墳時代」と呼んでいます。大和王権は、文明の進んだ朝鮮からの渡来人を積極的に受け入れ、土木・建築、鉄の加工、焼き物など様々な知識と技術を取り入れながら国家の基盤づくりを推し進めました。
◇扇状地を開発した渡来人
6世紀、甲良の地に渡来人集団が来たのは、水の乏しい扇状地に灌漑用水路を開削し、水田を拓くためでした。
北落遺跡を発掘された用田政晴氏は、「扇状地開発の使命を帯びた中央からの指導者あるいは有力豪族が渡来系技術・作業者集団を指揮し、犬上川からの取水工事、用水路開削を行なった。群集墳は、彼らの墓である。」と述べておられます。
犬上川左岸一帯に導水する「一(いち)ノ井(ゆ)」。右岸に導水する「二(に)ノ井(ゆ)」。それらは、渡来人によって開削されたものだったのです。正倉院に残る「水沼荘絵図」(敏満寺)にも二ノ井から引いた水路が描かれています。
今、私たちの周りに広がる豊かな田園風景は、遠い昔、渡来人の力によってその礎が築かれたのだということを心に留め置きたいと思います。
参考資料:用田政晴・山田友科子「群集墳の特質と展開」(『多賀町文化財報告書第一集』1991年)
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