文化 【たかつき歴史アラカルト128】三条西実隆(さんじょうにしさねたか)の見た戦国時代の高槻

皆さんは戦国時代と聞くと、各地で活躍した戦国武将たちを想像すると思います。武士たちが主役の戦国時代、武士以外の有名人が高槻を訪れています。その人物こそ、京都の公家・三条西実隆です。
実隆は政治家として京都の朝廷で重きをなした人物。また、連歌師・宗祇から和歌の古今伝授を受け、源氏物語をはじめとする古典文学の研究を行った戦国時代屈指の文化人です。能筆家の実隆は、公家や武士などさまざまな人々から古典文学作品の作成も依頼されました。また、書籍のほかには将棋駒にも文字を書いていました。
今から約500年前の大永4(1524)年、実隆は高野山参詣のため、京都の邸宅を出発し伏見から淀川を下ります。その船旅の中、鵜殿や三島江という場所がとても趣があって面白く見えた、と日記に書き記しています。この二つの土地は多くの和歌に詠まれ、特に鵜殿は土佐日記などにも登場する淀川の名所です。実隆にとっては和歌や文学で知っていた場所なので、現地を自分の目で見た際には特別な喜びがあったと思われます。
その後、実隆は目的の高野山参詣を果たし帰途につきます。このとき、室町幕府管領の細川氏に芥川城を任されていた能勢国頼が、大坂の実隆のもとに人や馬を迎えに行かせました。実隆は付き添いを受けて移動し、夕方には芥川宿付近にあったと考えられる善住寺に到着します。ここで食事と風呂を済ませ一泊し、翌日京都に戻りました。この手厚い対応は想定外だったらしく、実隆は感謝の手紙を国頼に送っています。
実隆が旅をしたのは、この高野山参詣を目的とした一度きりでした。旅中の鵜殿・三島江の景色や、芥川善住寺での歓待は、後々まで実隆の思い出になったことでしょう。
(しろあと歴史館)