文化 市史だより Vol.308

■もっと学びの場を!生まれ変わる横山の神社と学校
春は別れと出会いの季節。そうした舞台の一つである学び舎は、地域をはじめ、多くの人びとの大変な努力で造られ、維持されてきました。
一九四七(昭和22)年四月、学校教育法の制定により新制横山中学校が開校しました。それから2年ほど経た一九四九(昭和24)年、横山村は、下宮(現下宮町)にあった八坂神社の境内地を国から払い下げてもらい、学校の敷地にすることにしました。
横山村役場から市に引き継がれた「旧横山村役場文書」には、この経過に関わる「公文書」があります。
当時の横山小学校長谷川(はせがわ)校長の説明によると、一九四九年度の在席見込み数は865人でした。45人学級として、最小でも19学級が必要でしたが、併設する中学校に4教室を提供していることもあり、教室が足りず、18学級に圧縮している状態でした。さらに、年1学級ずつ増加し、将来は24学級となることが予想されていました。
一方、当時の横山中学校西川校長によれば、在席数435人で、9学級編成を必要としていました。しかし、教室数の関係から6教室に圧縮しなければならず、1教室に60人以上収容して授業をしなければなりませんでした。さらに、翌年度には生徒数が500人を越える見込みで、次年度以降も、教室が不足し続けることが確実でした。
それだけでなく、同じ敷地には、「定時制(ていじせい)府立鳳(おおとり)高校(横山分校。のちの横山高校)」も併設していました。
横山村は、戦前から、小学校卒業後の青年を対象とした教育が盛んで、青年学校と家政女学校(かせいじょがっこう)を横山小学校(当時国民学校)の敷地に設けていました。戦後に、これらの学校も制度上廃止されましたが、横山では、非公式ながら、「村立横山高等学校」という名称を用い、府立鳳高校の先生に来てもらい、勉学の場を確保しました。これが、定時制府立鳳高校横山分校農業科設置につながりました。
こうして横山村は、子どもたちに十分な勉強の場を確保するため、中学校や横山分校の独立校舎の建設を計画し、その用地として、八坂神社の跡地の払い下げを国に願い出たのです。
ところで、学校用地として予定された八坂神社は、東横山の人びとが祀(まつ)る神社でした。横山谷は、古くから、上之宮(うえのみや)(男乃宇刀(おのうと)神社)を祀る西横山地域と、下之宮(しものみや)(八坂神社)を祀る東横山地域に分かれていましたが、一九四六(昭和21)年に男乃宇刀神社に合祀されています。
そもそも、この合祀は、学校用地を確保するために、村を挙げて行った事業でした。長い歴史をもつ地域と神社を一つにまとめるきっかけとなったのが、学校でした。
横山中学校は、一九六四(昭和39)年に現在地に移転し、南横山中学校と統合して槇尾中学校と改称しました。中学校が移転した跡地は、横山高校の敷地となりました。

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