- 発行日 :
- 自治体名 : 兵庫県朝来市
- 広報紙名 : 広報朝来 令和7年5月号
■おかち地蔵~儚(はかな)い恋の物語~
竹田区内、円山川に架かる朝来橋の東のたもとに、1体の地蔵が立っているのをご存じでしょうか。高さ約190センチの花崗岩(かこうがん)に彫刻された立像で、その顔は穏やかで優しい表情を浮かべています。
この地蔵は、地元の人々から「おかち地蔵」と呼ばれ親しまれています。今回はこの「おかち地蔵」にまつわる、悲しいお話をご紹介します。
天正(てんしょう)の世(1573~1592年)、いわゆる安土桃山時代のできごとです。迫間(はさま)の峠に草ぶきの小屋を建てて仏道修行に励む、行心(ぎょうしん)という若い僧がいました。行心は、それはそれは美しい青年だったそうで、悟りを求めて念仏三昧(ざんまい)の日々を送っていました。
そんな行心に恋心を寄せたのが、お可智(かち)という娘でした。お可智は行心に身を焦がすほど恋慕しますが、行心は雑念を捨て修行に励む身。お可智は行心に近づくことさえできませんでした。思いつめた末に、お可智は円山川の淵に身を投げ、自ら命を絶ってしまいます。
町の人々は、お可智の悲しい恋、その純情と儚く散った命を憐れんで、その供養を行うとともに、これから先に水難者が出ないようにとの願いを込め、地蔵菩薩を祀(まつ)って「おかち地蔵」と呼び、彼女の冥福を祈ったのでした。
物語に登場する修行僧、行心は実在の人物で、17歳の時に豊岡の光行寺(こうぎょうじ)からやってきて、迫間にあるその下道場(したどうじょう)で修業を行っていたとされています。行心は竹田区内の勝賢寺(しょうけんじ)(1605年~)の開祖で、1571年に勝賢寺の元となる寺を開き、元和(げんな)六年(1620年)に京都本願寺から権小僧都(ごんのしょうそうず)※に任ぜられた記録が残っています。
「おかち地蔵」には「寛政(かんせい)七乙卯(きのとう)年(1795年)8月24日、施主惣町中・願主上裏町」と刻まれています。ここから、この地蔵が大字竹田内の九つの町の人々の寄進で造られたこと、それが江戸時代後期のできごとであったことが分かります。8月24日は地蔵盆の日、つまり地蔵菩薩の縁日です。
お可智が身を投げたとされる時期と地蔵の造立には200年余りの開きがありますが、この理由は明らかになっていません。また、施主(地蔵を造る費用を出した人)と願主(供養したいと発願した人)が別々であることも、どんな事情があったのかは分かっていません。
地元旭町区の人々は、お可智が亡くなってから400年以上経った今もなお、その命日である7月12日には、毎年きれいな夏花や団子を供え、鉦(かね)を鳴らしてお参りをします。この“おかち地蔵さんのおまつり”の風習と共に、お可智の物語も竹田の人々の中で語り継がれてきました。
お可智の恋心や、その純粋さゆえの脆さ、命の儚さは、時代を超えて、今もなお人々の心を動かすのでしょう。
※僧侶の階級のひとつで、僧正に次いで僧侶を統轄する僧官「少僧都」の内、定員外のもの。
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