文化 わたしのまちの文化財 vol.213

■大型二石の地蔵菩薩立像

赤尾の薬師寺の墓地の南には、大きな石造りのお地蔵さんが建てられています。立ち姿で、高さ138cm、幅57cm、厚さ22cm、像高92cmを測り、造られた年代は「永禄十二年(1569)己巳(つちのとみ)八月七日」と刻まれた紀年銘から室町時代の末、戦国時代であったことが分かります。石材は和泉砂岩で、右手に錫杖、左手に宝珠を持った姿で、錫杖は通常少し斜めに持つものが多いですが、この石仏は、垂直に立てて右の耳にぴったり沿わせています。また、スマートな八頭身で、一般と比べて厚みが薄く、高さが高いため安定しないので、別に幅広い台石を造って穴を開け、像の下部にを付け、はめ込んで建てています。周辺の地域に残る中世の地蔵石仏の平均の高さが50cm前後なので約三倍の高さがあります。石材がとれる和泉砂岩層は、約70cm毎に割目断層が走っていて、大型の像を刻むための長い石材を切り出すことは難しく、優れた技術が必要となります。
また、西山田の福蔵寺にも永禄十一年(1568)と1年違いの像があり、大きさも特徴もよく似ており、岩出市・紀の川市でこのような特徴を持つ大型二石の地蔵菩薩像で紀年銘の分かるものは、永禄三年(1560)から慶長十年(1605)にかけてのものが16体残っています。粉河寺に残るものは最大で高さが約2mもあり、「永禄七年(1564)卯月日」と光背に刻まれておおり、錫杖の下部にはカタカナで、「サクタラウサエモン四十九ノトキ」と刻まれています。また、地蔵像ではありませんが、名手市場には、「永禄十二年(1569)十月吉日サク太□サエ門五十シノトキ」と刻まれた念仏塔が残ってていることから、「サク太郎サエモン」なる人物が一連の作品を残した石工であったのかもしれません。
地蔵菩薩は、釈迦が入滅して弥勒菩薩がこの世に現れるまでの間、六道に苦しむ衆生を救済する菩薩であると言われ、広く民衆に信仰されました。戦国時代の混乱期に人々の救済の願いに応え、一時期大きな地蔵菩薩像が造られました。同じ人物によって造られたのか、当時の流行の形であったのか定かではありませんが、短期間で大型二石の地蔵菩薩立像はこの地域から姿を消します。
石造物には、五輪塔など多数の種類があります。その中でも地蔵菩薩像は「身代わり地蔵」など多様な呼び名がつけられるように、その容姿から親しまれ、多くの信仰を集めています。

問合せ:紀の川市文化財保護審議会
【電話】77-2511(生涯学習課内)