- 発行日 :
- 自治体名 : 広島県庄原市
- 広報紙名 : 広報しょうばら 2025年7月号(No.244)
(歴史民俗資料館・倉田百三文学館)
開館:10時~17時、
休館:月曜(祝日開館・翌日休館)・年末年始
■倉田百三(くらたひゃくぞう)と三峡塾(さんきょうじゅく)
(創設者金井英一郎(かないえいいちろう)氏への書簡)
倉田百三は、明治37年(1904年)から明治43年(1910年)まで、旧制三次中学校(現三次高等学校)に在籍していました。(途中1年間休学し、尾道で生活)
在学中は、叔母静子(しずこ)の嫁ぎ先で妹の重子(しげこ)が養女となった「宗藤(むねとう)家」に下宿しており、卒業後、東京第一高等学校(現東京大学)へ入学するために上京しますが、その時に在席したのが「三峡塾」でした。
「三峡塾」は、当時、三次中の卒業生が上京した後、三中東京同窓会として定例会を行うなど活動していましたが、その中の有志により明治41年(1908年)に設立されました。
塾綱領(こうりょう)(方針)では、「教育勅語(ちょくご)の趣旨を奉体し学を修め、同時に堅忍持久(けんにんじきゅう)の精神を涵養(かんよう)せんとするもの」と示され、あくまでも自主的に運営し、上京した三中卒業生を支援する目的で毎週雄弁会(議論を通じて、社会問題などについて深く理解し発言力を養うことを目的とする会)を開催するなどの活動を行っていたようです。この「三峡塾」創設者の一人が「金井英一郎」氏です。英一郎氏は三次の出身で、前述の宗藤家の近所に実家があり、当時より百三とは交流があったようで、百三の「三峡塾」入塾にも関わっていたと思われます。
▽金井英一郎氏への書簡
令和5年11月、英一郎氏の孫にあたる「金井宏一郎(こういちろう)氏(広島市在住)」から、百三から英一郎氏へ宛てた書簡(手紙)が倉田百三文学館に寄贈されました。
書簡は、百三が東京で執筆活動をしていた頃のもので、庄原に帰省した際、三次の金井家を訪れ、もてなしを受けた際のお礼の内容となっており、塾生として交流のあった友人のことなども書かれています。
また、手紙では、「ご内室様」として英一郎氏の妻「金井時子(ときこ)」氏のことにも触れています。時子氏も当時執筆活動をしており、百三は、友人の作家武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)氏や三峡塾創立メンバーの一人である吉中永建氏を通じて知っており、気に掛けていたようです。
百三は、大正11年10月に発刊された『新家庭』の中で、時子氏が執筆した『涙の底から』について評論を掲載しています。このように、当時の書簡や発行物が発見されたことで、百三の交友関係が確認されるなどとても貴重な資料であると言えます。
この書簡は、文学館内に展示してありますので、ぜひご覧にお越しください。
問合せ:田園文化センター
【電話】0824-72-1159