- 発行日 :
- 自治体名 : 広島県安芸高田市
- 広報紙名 : 広報あきたかた 令和7年10月号
■シリーズお城拝見 第97回 毛利輝元の城(郡山城、広島城、萩城)
歴史民俗博物館 副館長 秋本 哲治
今年2025年は、毛利輝元没後400年の節目の年です。そこで、今回は輝元が築いた3つの居城を紹介します。いずれも良く知られた城ですが、実は郡山城時代が一番長いことは意外と知られていません。
◇郡山城(1553〜1591)
現在の規模になったのは16世紀の中頃、輝元の祖父元就と父隆元の時代と考えられます。山頂に元就、中腹には隆元がそれぞれ家族らと暮らしていました。2人の死後、輝元は郡山城を大規模に改修し、中心部を石垣造りとして、一部の建物には当時主流ではなかった瓦を導入しました。また、多くの家臣団の城内居住を積極的に進めていきます。戦国山城としての完成形ともいえる郡山城は、広島城築城後も存続し、関ヶ原合戦後に廃城となったようです。
◇広島城(1591〜1600)
1589年、輝元は太田川河口のデルタ一帯に広島城の築城を開始します。(1)山城でなく平城、(2)城全体が石垣造り、(3)瓦ぶきの天守と2つの小天守を備える、という点で郡山城とは全く異なる構造でした。そして1591年、未完成ながらも広島城に入城した輝元は、城とともに新たな城下町「広島」も整備していきました。しかし輝元は入城からわずか9年で減封により広島城を追われ、直後に福島正則が入城します。
◇萩城(1604〜1625)
1604年、輝元は山口・萩・防府の候補地から萩を選定し、新たな築城を開始しました。以後、輝元は萩城を拠点とし、1625年にこの地で没します。萩城は全体が日本海に囲まれた指月山(しづきやま)と山麓の平地を城域とし、まるで郡山城と広島城が合体したような構造です。輝元の墓所(天樹院)は三の丸に建立され、現在でも参拝可能です。
■歴史民俗博物館秋季企画展
『没後四〇〇年記念企画展 毛利輝元の原点』
会期10/31(金)~12/8(月)
